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題:シュトルム著 関泰祐訳「みずうみ 他四編」を読んで

シュトルムの「みずうみ」、著者と作品はどこかで聞いた記憶があり、読んでみたけれども、内容は単に抒情的な香りがする短編作品である。きっと抒情詩人としてのシュトルムという名が記憶にあったのであろう。それに、ジュリアン・グラックの「アルゴールの城にて」のような本来的な叙情と精緻な詩的文章をイメージしていたために、なぜか頭の中が混乱していて、間違って選択して読んだ本であるに違いない。

「みずうみ」のあらすじは、ラインハルトなる老人が幼友達エリザベートと過ごした愛する日々、帰郷して行き違いの生じた日々、イムメン湖の邸を訪れ、湖の小舟に手を休ませているエリザベートの悲しみと、その後の別れを湖の情景を交えながら描いた作品である。抒情詩も何篇か混じっていて、それらしい抒情的な心象風景的な雰囲気は確かにあるけれども、文章も簡潔にもの悲しさを含んでいるけれども、何か物足りない。やはり、もの悲しさだけではなくて、何か出来事が生じなければならない。もしくは、もの悲しさを否定する反作用としての力、また肯定する力を含んでいなければならない。この力とは出来事を生じさせる力でもある。だが、こうした要求そのものが著者の資質とは異なったものである。無理な要求なのである。なお、テオドール・シュトルムは1817年にドイツに生まれて法務関係の仕事に就き、苦難に合いながらも、抒情詩人として作家として活躍していたらしい。

思えば、抒情詩とは叙事詩の韻文による事跡を記述した詩と比較した言葉であり、自らの感情や情緒を、そしてこれらを踏まえた思想や観念を表現するものである。この広領域な抒情詩という言葉を間違って狭領域に解釈していたのだろう。一般的に書かれる詩の過半は抒情詩であり、単なる愛おしさや切なさに、怒りや憎悪を含めてた心の動きを表したものである。こうした感情表現をした詩のみ抒情詩として理解していた。すなわち、抒情詩とは表現の形式や内容に斬新さが、特に言語と観念や感情に新鮮さを含んでいなければならないと思っていたのである。感情表現を超えて表現に何かしらの新しさが加わっていなければならないと思っていたのである。

この斬新さとは新鮮さとは何であるか、それは規範からの逸脱である。常に汎用さから逃れ出ようとする表現とその形式である。逃走線を追いかけ境界に至ろうとする、もしくは境界の縁にて発することのできる表現と形式である。例えば例に、白石かずこの「卵の降る街」から、「青いレタスの淵で休んでると/卵がふってくる」の淵であり、落っこちそうな淵である。淵とは生命を維持することのできる境界線上において生じる錯乱でもある。「錯乱こそが、世界の端から端へと言葉を運び去るプロセスとして、それらの形象を発明する。それは言語活動の境界線上にある出来ごとなのである」と述べた哲人もいる。

だいぶ横道に逸れたが、これからは抒情詩という言葉をどう使うか難しい。あまり使わないようにしなければならないのか、それとも自らの勝手な信念に基づいた判断により使用すべきなのか、私の理解する抒情詩とは数少ない作品にのみ適用できるためである。そう言えば、最近、何らかの賞をもらった詩集から引用した詩が新聞に掲載されていて良いなと思った。後で読んでみたいと思い、でも作者名も作品名も忘れていた。受賞したからにはネットで調べると分かると思ったが、なぜだか、どうしても見つからない。センテンスが長かった詩である記憶がある。また、逢うこともあるに違いない。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。