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イアン・ブレマー著 有賀裕子訳 「自由市場の終焉 国家資本主義とどう闘うか」を読んで

国際政治や経済にも関心を持っている。ずっと以前には、ハイオクの「隷属への道」やケインズの公共投資に関する本を読んだことがある。最近読む経済学の本には統計や確率の知識が必要になっている。難しい数式が結構でてくるのである。政治は、経済学ほど数学は必要ないが、どこか根拠に確実性が乏しい。文学や哲学論以外の本を読むのは、これらの著書に関心あるものが少なくなっているためでもある。特に新しい小説は、最近は読んでいないが、面白いものがなくてやめた。詩集は探せばあるかもしれない。でも、あまり探す気力もない。誰か、文章描写の色濃い大江健三郎などの作家論を書くのが良いかもしれない。ただ、大江健三郎は中年期までの作品はとても良かったが、阿部晋三嫌いの左翼主義パホ-マンス、というより理想を込めた平和主義にうんざりする。「燃え上がる緑の木」は良いが、漱石を批判した「水死」は何故だと問いたくなる。すると、もう、その誰かが思い浮かばない。国家資本主義と高度民主主義社会の経済発展の違いなどは以前から関心を持っていたし、この際読んでみることにしたのが、「自由市場の終焉 国家資本主義とどう闘うか」である。今なお、資本主義と社会主義の経済、自由と監視などにとても関心を持っており、今後も機会があれば読みたい。経済というより哲学的なテーマにも成り得るはずでもある。 

結論から述べると、BRICSやBRICSに加わりそうなそれぞれの国の内情は相応に細かく記述されているが、さて、国家資本主義とどう闘うかなどの論旨は大雑把で、最後に民主主義社会は国家権威主義社会に打ち勝つことができると結論づけられている。哲学書みたいに論理性は薄くて、各国のルポタージュを事細かに記述したような本である。この本の趣旨を簡単に述べると、中国が鍵を握るが、アメリカが国際社会に不可欠な地位を保ち、貿易の門戸を閉ざさずにいると、国家資本主義に黄昏が訪れて来るのである。この理由については本書を読んでいただきたい。なお、本書は2011年に発刊されている半ば古い本でありながら、ある種2023年の国際情勢を見ているような先見の明がある。ただ、これらの状況は当時から誰もが気づいていたのかもしれない。哲学本みたいに細かく読むことはできない。各国の大統領などの人物を交えたその国の状況などに私の関心がなく、また、経済学の本とも異なっているためである。先ほど述べたルポタージュの延長に近く、いわば国家資本主義、むしろ国家権威主義社会の国々の状況を描いた本なのである。なお、国家資本主義とは権威主義国家が資本主義を取り入れている政治経済の形態を指し示している。 

一番気になった国がサウジアラビヤなどの王国である。石油の利権を通じて得た収入によって国を運営し、石油の価格などを通じて国際社会に膨大に影響を与えている。社会主義国家以上に傲慢で思うままに行動している。そして金をばら撒いて、都市建設やスポーツなどの祭典を主催している。国の石油依存体質からの脱却を目指して技術などを獲得し、次世代に向けて衣替えを行なおうとしている。いわば、中国などと同等な国家権利主義社会の冴えたる立場を保持していることを忘れていたためである。ただ、中国では不動産バブルや少子化などを通じた経済の悪化が近年伝えられている。いわば失われた30年を経験した日本化、即ちデフレ経済に陥るのではないかとの指摘もある。これら近年の事はこの本では語られていない。でも、大枠で本書はBRICSの正体を見抜いている。即ち、国家主義体制の国々ばかりではない、国家主義体制には属さないインドやブラジルも含まれていて枠組みが広すぎ共通の目的を持てないと指摘している。自由主義社会への対立軸と言うより、自由主義社会に不満を持つグローバルサウスなる国々をグループ化しようとしていている。中国とインドは国家体制が根本的に異なるし、ブラジルも自由主義社会である。BRICS内部の対立もあるため対立軸としては無理であると著者は述べている。ただ、グローバルサウスを含めてこれらの国が共通の目的とするのが、脱ドル通貨であれば、案外一致することもあり得る。アメリカの国力低下、言わばアメリカ国内の分断、老害の政治がこれを助長する。一方、製造拠点のアメリカへの回帰が経済を補強すれば、少なからず対抗できる。これらの細かな点を割愛して、最後に長い年月をかけた人類の政治経済活動について大雑把ながら少し私の意見を述べたい。 

本書は、自由市場資本主義社会は国家資本主義社会に打ち勝つことができるとの結論を示していると述べたが、その理由はあまり説得力がない。各国の国力は経済力、軍事力、人口、領土、技術力、国際的外交力などによって示されるが、これらは個々の国の総合的な力である。言い換えれば、その国のパワーである。そして、BRICSやG7にNATOなどの組織の力はこれらの個々の国のパワーを積算したものではない。組織を構成する国々の関係性、言い換えれば関係性の緊密度を積算したパワー、強度こそが重要となってくる。それぞれの組織・グループの力が、経済の競争力の優劣関係を、戦いの行方を左右させるのである。その点から言えば、自由市場を掲げる民主主義社会はより強固な組織であり、なおかつ国家資本主義国家とのデカップリングやデリスキングを行うことによって、市場として強固に作動するのである。本書はグローバリゼーションの潮流こそが大切であり、世界の経済的な発展に寄与すると主張するが、近代の思想を重視するあまりに誤った見方をしている。グローバリゼーションは理想主義であると思われる。アインシュタインが述べるように国々が統一された世界政府がなければ無理である。現状はグローバリゼーションを装いながら、それぞれのグループが、グループ間で競争し合い相手の隙を見出して出し抜こうとしているのが現状である。 

言い換えれば、グローバリゼーションとはグループ化された国々の組織を基本としてグループ間で作動する。グローバリゼーションによる経済的な発展は人々の生活を豊かにするために必要であるが、グローバリゼーションとは狭義化され、豊かさや進歩は相応に犠牲にされる。なぜなら、国家資本主義の国々とはグローバリゼーションの最大の受益者でありながら、この恩恵により蓄積された富と増大した軍事力によって世界を支配しようとするために、デカップリングやデリスキングを行って彼らの経済活動の勢いを阻止しなければならない。世界の支配を目指さなくとも、過大な富の蓄積によって、優越的な立場を誇示して、ますます自国の優位性を強力に築こうとしている。本書では、国家資本主義社会と民主主義社会の国を、人民への支配力と自由度の観点から並べて、強権ぶりが最大の国から薄められた国へと、そして自由がある国へと順に並べている。国家資本主義と民主主義国家とその両方の性格を保持した国はどちらかのグループに、もしくは両方のグループに加盟して経済的な活動を行うことができる。無論、国家資本主義国家と民主主義国家との間でも完全に経済活動を断ち切っているわけではない。デカップリングやデリスキングを選択されていても、相応の経済的な活動は行われている。というより、行わざるを得ない状況でもあるのである。 

ただ、言えることは、今後これらの権威主義国家のデカップリングやデリスキングが深まるのか、反対に今までのグロバルゼーションな世界経済が戻ってくるかである。国家資本主義社会は苦しい。グローバリゼーションによって最大に受益していたその交易を自らの権威主義によって低減させられているためである。そのため国家資本主義社会はその強圧的な権威主義を抑制することができるのだろうか。今までの歴史から見ると無理と思われる。ただ、BRICSは新たな加盟者も加え、石油や天然ガスのエネルギー資源の保有で圧倒的に有利な状況にある。NATOやG7などに比べて組織的な緊密度は緩くても、中間的な立場の国々も加えて、脱ドルな世界を目指さなくとも、民主主義陣営の対抗軸に成り得る。即ち、アメリカの一強時代は終わり、多極的な組織に分割される世界へと変わろうとしているのが現状である。 

この多極的な組織体制の内で力を持ち影響力を持ち得るのは、AIや半導体にバイオに宇宙などの技術的な優位性とエネルギー資源の保有や獲得である。中国の技術力はアメリカに迫ろうとしている。西側は中国に果たして優位性を保てるのだろうか。いくらデカップリングやデリスキングによる遮断を行っても技術は高い所から低い所へと流れる。中国の技術力は西側に追いつき追い抜こうとしている。ただ、遮断は相応の時間稼ぎにはなるだろう。けれど、石油や天然ガスのエネルギー資源ではアメリカやイギリスに北欧諸国などにもありながら、圧倒的に負けている。エネルギー源としての水素やアンモニアはまだ立ち上がったばかりであり、核融合は何十年も先の話である。風力や地熱発電に太陽光の利用は増加させるのに時間がかかる。即ち、権威主義国家を侮ってはいけない。簡単に自由主義社会が打ち勝つなどと結論づけてはいけない。この世界の構造はもはや多極化へと変貌したのであり、民主主義国家による自由市場は権威主義による国家資本主義との戦いせめぎあいが続くのである。そしてグローバルサウスなる国々の取り込みを必要とする。仲間を増やし、グループを強化し経済をより強くすることが必要なのである。 

ここからは私見である。本の題名が「円環の変貌」と題していた何らかの本があった。内容は忘れたが、国の体制とは円環を伝わり変貌・反復して元の状態へと戻る社会体制の繰り返しを行っていると考えることができる。即ち共生する平等社会から権威者が現れて人々を支配していく。権威者は君主制も恐ろしいが、権威主義国家の方がより恐ろしい。でもこの権威者の支配する権威主義国家は自由と権利を求める人民によって、国家そのものが破壊される。内部的な混乱を人民の視点を変えるため、外部へと活力を求めて軍事力を行使してしまうと、勝っても負けても国家が分裂する悲劇が待ち構えている。この結果分裂した小さな国々が、また共生社会を構築するのである。権威主義国家にならないのは、内部の人間たちの叫び声が民主的な共生社会を呼び寄せるためである。このように、どうしても戦争が生じて多くの人間の命が奪われ犠牲になる。その代わりに新しい体制を持った国が姿を現わしてくる。言わば国の体制とは円環を循環するように変貌を繰り返すのである。これはファーストスターのように青色に燃えていなくとも、強権政治の廃墟から新たな生命の清々しい息吹が湧き出てくることでもある。それは青空の下に集まった青と黄色の布に包まれた少年少女たちに、待ち構えていて帰還兵に抱き付く女たちが蒼空に放ったヒマワリの花びらの色でもある。 

先進国が奴隷国家を作り上げたように、権威主義国家はグローバルに自由主義国家を奴隷化にすることを目的としている。遠くの未来を想像すれば、これらの自由市場を争う戦いの終わりを告げる日は、権威主義国家と自由主義国家との争いの結末でもある。権威主義国家は自らの壊滅と同時に、死人となった人間を、大量の血と肉とを自由市場に供給するのである。また自由主義国家も血と肉に飢えた人間たちがこれらを自由市場にて買い取るのである。どちたの勝利であるのか、決まり切ったことだ。野球で言えば、プレーの合間に、ヒマワリの種をかじるその消費量の多いチームが勝ちに決まっている。そして、チームは長年にわたり補強を繰り返し、優劣を競い合うのである。優勝チームは翌年最下位に陥ることもあり得る。同様に、恐慌などの経済的な破滅が自由主義国家を権威主義国家へと変貌させるかもしれない。無論、チームの一年は、国家の百年以上の時間的な拡張の元に、国家は変貌して競い合い続けるのである。問題は、以上述べた未来像が訪れるのか、それとも現状の戦いが続く期間が有限化なのか、もしくは無限化の問題である。私は有限であると思っている。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。