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井原西鶴著 松田修 校注「好色一代男」を読んで

「好色一代男」は「好色一代女」と共に一度は読んでみたかった本である。「好色五人女」は以前に読んだことがある。感想文も書いている。八百屋お七など。四人の女が悲劇で終わり、一人の女のみが男と共に裕福に暮らすことができた。いわば、当時の実際の男女関係のもつれが題材となって書いた作品のはずである。この「好色一代男」は好色な男の色に関わる一生を描いている。無論、一代限りで跡継ぎはいない。「好色一代女」も同様に好色な女の一生を描いている。同じく一代限りで跡継ぎはない。小話を重ねて話は進み、男も女も年老いていくのは同じである。ただ、その底流は異なっている。「好色一代男」が色に色を重ねて、女護の嶋に渡ろうとする楽観的な楽しさがあるのに対して、「好色一代女」は死を前にして、自らの色に染みた生涯に浅ましさを感じて懺悔する悲しさがある。この違いについては、「好色五人女」の感想文にて示したい。 

それにしても「好色一代男」も「好色一代女」も読みにくい。おおまかにしか読んでいない。ずっと昔、平安時代の日記文学は「岩波古典文学全集」で読んでいる。こんどは「新潮古典集成」である。「岩波古典文学全集」は上段に注書きがあるだけで、割と丁寧に読んで内容を把握することができた。ところが「新潮古典集成」は上段ばかりでなく、文中にも赤い小さな字で注釈を入れている。この文中の赤い小さな字が読むのを妨げるのである。無論、井原西鶴の戯作文が過去の文章や故事を踏んで書いている難解さもある。樋口一葉の文章と同じ難解さである。もし、当時の文章を味わいたいと思わなければ、現代文訳を読む方が効率的である。それにきちんと読みこなすには相応の知識と努力が要る。色町の仕来たりや女たちの階級に金銭的な裏付けの知識である。「好色一代女」の解説に、これらに時刻などを加えて説明されているのは、読む者にとってありがたい。 

井原西鶴の生涯はテレビでも放送していたが、Web上でも確かめられる、本書の解説でも記述されている。後で紹介するが、本書の解説はとても高度な哲学的な解説である。井原西鶴はまずは俳諧師となる。最初それほどうだつがあがらなかったが、励んだ結果、句集を結構出版している。一晩中歌う矢数俳諧が有名な行事となる。一つの俳句を一分以内に読んで相当な数となる。それを何回も行い次第にその数が増えていくのである。「好色一代男」を発刊したのが41歳の時である。それまでの仮名草紙と区別して浮世草紙と名づけられる。仮名草子とはまるで内容が異なっている。浮世に即した内容なのである。俳句の師の死後、西鶴が草紙本に生き様を見出して記述したのは、それなりに理由があるからなのだろう。好色本ばかりではない、武家の義理物や「日本永代蔵」などの経済物もある。こうした西鶴の作品は「好色一代男」以外は、単に名を貸して関与していただけとの説もある。真偽は知らない。 

「好色一代男」は読んでみると、それほど面白い作品ではない。色に執着する男、作者と世之介なる主人公の両方の視点から、まぜこぜになって書かれている。色なるエロス、性描写はほんの少しあるだけで、世之介が経験する色恋沙汰に関するお話が主である。この話が数頁の短編となって、七歳から六十歳まで全部で五十四話ある。あまり面白くないのは、この細切れの話のせいなのかもしれない。色恋に狂って勘当される。でも、父親が死んで莫大な遺産を得て、母親に使えと譲られたお金を、仲間とともに色町にて湯水のように使う全体の筋はそれなりに通っている。でも、ぷつんと切れてそれぞれの話が進んで行く、どうしても途切れるのである。恋の駆け引きや芸子遊び、世の痴情事件、色町の仕来たりなど世之介の実体験と井原西鶴の一般論的な視点から描かれた、いわゆる色に染まった浮世の品数が続いて、主人公の世之介は齢を重ねていくのである。 

ただ、いくつかの描写には心情と行動に迫力があり、かつ狂気じみた幻覚さえある。こうした文章は西鶴の筆の確かな力量を示している。さて、あまり感想がないので、私は気が付いた箇所の文章を引用だけにする。まずは、遊郭における遊客と遊女の仕来たりである。遊客は他の遊女と関係できない。遊女も遊客の連れとは関係できない。禁忌である。でも、世之介は他の女と話すこともできないつまらなさに、どの遊女とも関係を持つ。この体力と執念には感嘆する。でも、禁忌を破った者は冷淡にあしらわれる。密夫とは複数の遊女と通じることである。でも、禁忌を犯して、こんな簡単に解放されるのだろうか。何らかの、私刑や罰金などの罰を受けないのだろうか。不思議である。 

女郎寝てまわせば、男酔いて前後をしらず。何かたると思へば、友どちにあふ事のせんさく、そのいひ分・仕懸け、どの床も替る事なし。人とは物もいはせず、せわしく気のつまる事にぞ。五七日さわぎの内に、残らず密夫となれる。さすがにおろかなるやりくりにて、後はあらわれてむごく見限られて、ここも暇乞いひなしに上りぬ。 

また、女郎の言う手くだの男とは情夫のことであるが、情夫には真心を尽くす本物の品をあげる。他の男は騙すのである。この品には、墓を暴いて仕入れた爪などがある。 

「月日を送りかね、さまざまのこころに成りて、今こそ美しき女の土葬を掘り返し、黒髪・爪をはなつ」といふ。「何のために」と聞けば、「上方の傾城町へ、毎年忍びて売りにまかる」と語りぬ。「求めてこれを何にする」ときけば、「女郎の心中に、髪を切り爪をはなちさきへやらせらるるに、本のは手くだの男につかわし、他の大臣へ五人も七人も、『きさまゆえにきる』と文など包みて送れば、もとより人に隠す事なれば、守袋などに入れて、深くかたじけながる事の笑しや」 

西鶴のエロチックな文章を一つ示したい。情を通じている時の女の具体的なありさまを描いた文章である。と言っても、当時どれほどエロチックな文章であったかは分からない。 

この女の事のありのまま書き記す外に、あわねばしれぬよき事ふたつあり。生まれつきの仕合せ、帯とけば肌うるわしく暖かにして、鼻息高くゆ髪の乱るるををしまず、枕はいつとなく外になりて、目付きかすかに青み入り、左右の脇の下うるほひ、寝まき汗にしたし、腰は畳をはなれ、足の指さきかがみて、万につけてわざとならぬはたらき、人のすくべき第一なり。 

女の執念が描かれている場面は少ないが、描写がとても恐ろしい。挿入されている描画も見にくいがなにやら怪物が大勢描かれている。なお、描画は話の筋とすぐさま分かるものが半分程度である。良く分からない画も多い。 

二階よりはしの子をつたひて、頭は女、あし鳥のごとし、胴体は魚にまぎれず、浪の磯による声のして、「世之介、我を忘れ給うか。石垣町の鯉屋の小まんが執念思い知らせん」といふ。枕まきざし抜き打ちに手ごたえして、うせぬ。うしろの方より、女くちばしならし、「われは木挽の吉介が娘、おはつが心魂なり。『ふたりが中は比翼』というて、思い死にさした、そのうらみに」と飛んで懸るを、これもたちまちに斬りとめぬ。 

さて、松田修の解説、「『好色一代男』への道」、の内容を簡単に示したい。彼の言う「道」とは「好色一代男」を描くまでの西鶴の人生譚の道でも、世之介のように好色な男になる道でもなく、「好色一代男」が描いている内容を読み切り、この作品が描いている真意にたどり着く道である。まず、彼は、近世において、時間-速度-数量が密接に関連しながら加速していく、これが近世と言う時代のもっとも本質的な部分を形作っていると指摘する。近松門左衛門のお金の返却を期限までに返せない時間の縛りからくる心中の悲劇、矢次俳諧の速度と数量、このエネルギーは詩を破壊して、新たな詩を作ったと彼は言う。更に、俳諧の出版は共同体にて行うが、西鶴は作家名を冠して商品化して、共同体と決別し、個我の作家として独立する。この個我の作家の量が途方もなく多くて、それに西鶴や近松には近代的な追い駆けてくる時間感覚を持っていたと述べている。いわゆる貨幣を基礎とした近代社会への進展、当時で言えば物質的に旺盛を極めて行く町人文化の加速度的な発展があったのである。 

次に松田修の解説は空間意識を取り上げる。空間意識は中世の平面的なものから、近世日本においては、経済機構の発展によって全国的な全貌図になっていると言う。こうした空間と時間の意識の時代的な変化を基盤として浮世草紙が生まれてきたのである。なお、浮世草紙の一分野として、愛欲色情を作品のテーマにしたのが好色本である。彼の最も重要な指摘は、それまで尊重されてきた「家」と言う制度、跡取りや先祖祭りと「好色一代男」は無関係なことである。それが「一代男」の三文字が意味する。「一代男」とは好色により生殖を忘れて家を断絶させた男の意となる。世之介の親父を起源として、蕩児が遊女の間から生まれ出た男の一代限りの物語なのである。流離(さすらい)の物語でもある。この辺りの全国的な視点からの論理展開も考慮すべきであるが、西鶴の意識は、たぶん恐らく各所の訪問、もしくは聞き伝えを元にして、そういう話を次々に展開させていたのかもしれない。今さらながら言うのは遅いが、江戸の爛熟文化のおさらい、全国各所の文化の隆盛の考慮が必要かもしれない。 

世之介が関係した者の数は男女合わせて、四千四百六十七人の数量の多さも、先の量や菩薩数との関係、また、源氏物語の五十四帖との関連も指摘される。世之介の一話一話の継起性の放棄や、最終章の女護の島への船出についての、母や都に、母なる母国との関係性の考慮も「解説」には述べられているが、省略する。最後に女護の島へ行く前に、残った金六千万両を埋めて置く。解説では金銀を媒介とする愛からの解放と述べている。ただ、帰国後の軍資金とも取れる。いずれにせよ、性豪は不滅なのである。ただ、この一代男は生まれ出た子をすぐさま捨てて、自ら一代男を選択したかもしれないと指摘している点が興味深い。本書の文章は難解であるが、それ以上に本書の発刊と内容が意図するところを読み解くことが難解である。というより、浮世草紙が大衆の求める娯楽の一つであった点から単純に考慮すると分かり良いのかもしれない。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。