題:岩野泡鳴著「耽溺 毒薬を飲む女」を読んで
亀井俊介著「日本近代詩の成立」を読み、異端詩人なる岩野泡鳴は口語自由詩へと移り、泡鳴五部作として「発展」、「毒薬を飲む女」、「放浪」、「断橋」、「憑き物」があるとのことを知る。泡鳴の詩が結構良かったため、本書を読むことにした。ただ、結論から言えば、作品の質はそれほど高くはない。更に本書は詩ではなくて、小説なのである。自然主義文学の一端をなす彼の著作物は、小説の神様なる志賀直哉の「暗夜行路」と同等に、真に迫ってくるものがない。「毒薬を飲む女」も口語自由詩ではなくて、単なる著者自身をモデルにしたある種のデカダン文学であるのかもしれない。文章も粗く会話も不完全でデカダン小説にもならない、通俗な読み物であるのかもしれない。この感想文は良くなかった作品として、自らの記憶に残すために書いている。
「耽溺」は作品を書こうとする者が海辺の素人に家に宿泊し、吉弥なる芸者との行き来を描いたものである。吉弥に関する地元の者との意地の張り合いも、妻のヒステリや性悪女なる菊子も書いている。「耽溺が生命である」と述べているが、本小説はこの耽溺の思索を深堀するのではなくて、混乱し錯綜した男女関係、人間関係の描写のみがテーマであり、内容である。「毒薬を飲む女」もこうした男女関係に、樺太での缶詰事業の失敗などを加えて、女がついに毒薬を飲んで自殺を図る単なる三文小説である。
こうしてみると自然主義文学とは何であるのか。内的な質が伴わずに皮相なのである。夏目漱石が、自然主義文学を批判するのも道理である。島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「布団」なども、もう読むことはないだろう。ただ、「布団」の女の残り香を嗅いで泣く男の話は、馬鹿々々しくて面白いかもしれない。ただ、描写力の無さやゆきあたりばったりの筋書きが読むのをためらわせる。そう言えば川端康成にも表題は忘れたが、似た小説、小説家に弟子入りする二人の女のどちらを物にするかを描いた作品があったはずで、それも、面白くなかったと思っている。
川端康成にもデカダン小説はありながら、岩野泡鳴よりは質的に幾分高くとも、真にデカダン小説には成り得なかったと思っている。例えば「眠れる美女」を三島由紀夫が絶賛したのも、ある種の虚構であり、虚言である。デカダンとは堕落、頽落、廃物であり、そのために返って生へと上昇させるものである。老人の女に関する死に際の思い出話ではないし、眠る裸体の少女とただ一緒に寝ることでもない。
こうして書いてみると、それぞれの人によって、さまざまに意見があるに違いない。今さらながら、小説作品は人によって評価が異なることこそが、面白い気もしてくる。ある意味、江戸時代の戯作物が明治になって近代小説として何らかの心理を描く小説へと斬新に変貌したのではなくて、むしろ小説の面白さを退化させたとも思われる。ただ、心理描写によって小説の描写領域の幅を少しばかり拡大したのかもしれない。こう言うなら、まだ描写領域の拡大は可能である。まだ残されている書くべき領域があるはずと思っている。
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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。