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題:尾崎紅葉著 「金色夜叉」を読んで 

ああ、これが「金色夜叉」なる小説なのかと思う、古い型の小説と言うより、増築建築した建物のように継ぎ足しされ続編が続いている、ストリーの迷子になりそうな構成である。裏表紙から本書の内容を引用して紹介したい。『美貌の鴫沢宮をカルタ会で見染めた銀行家の息子富山唯継は、宮に求婚し、その代償として宮の許婚者間貫一を外遊させることを宮の両親に誓う。熱海の海岸で、宮の心が富山に傾いたと知った貫一は絶望し、金銭の鬼と化して高利貸の手代になる・・。雅俗折衷の絢爛たる文体で明治の世相を大きく裁断した本篇は、紅葉文学の集大成であり、明治文学を代表する一大ロマンである』すごい褒めようで胡散臭くもある。でも、雅俗折衷の文体はそれなりに趣がある。 

さっと目を通して感じたことは、思い憂うる心理の葛藤を描くのではなくて、都合よく心理を付随させて物語の筋が展開する。有名な熱海の海岸は全470頁の内、すぐさま70頁に現れる。あらすじは、昔、親が面倒をみた部下が義理を感じて、間貫一を居させてくれる、その娘とも許嫁の関係にある。たぶん互いに好いているはずである。それがカルタ会での金剛石(ダイヤモンド)の描写が幅を利かせて、なんだか知らないうちに宮は富山に嫁ぐことになる。宮の心理は、私が嫁いだら貫一はどうなるのかぐらいにしか思っていない。最初から好いた惚れた恋愛関係になかったのである。二葉亭四迷作「浮雲」など当時の下宿人と娘との関係は、密に恋愛感情に結いついているから、「金色夜叉」の宮の素っ気なさにはびっくりしたものである。 

従って、ダイヤモンドや熱海の海岸を含めた最初の話は、荒唐無稽な芝居のような派手さがある。それより嫁いだ後の宮が富山に虐められ、忘れられない貫一に救いの手紙を書くなど、心理が都合よく180度回転する。ただ、高利貸しではなく真人間になって欲しいと貫一に言う者もいて、また同じ高利貸しの女に言い寄られなどの筋の方がよっぽど真実味がある。いつでも小説とは、都合よく筋(プロット)が運んでいくのである。ただ、後半の心中をしようとする恋人たちの話などは本格的な小説の芽を宿している。こうしてみると、筋がうまく運ばない小説は貴重である、とても数が少ない。きっと、散文詩などは筋など当てにしない。散文詩はある種のインスピレーションに囚われ、感情の赴くままに書いた、言葉の混乱であり脱線である。さて、「金色夜叉」の最後はどうなったのだろうか。記憶に無いので本を取り出して調べると、「新続金色夜叉」では、お静という女と酒を飲み交わしながら、女の情について語り合っている。心中しようとした男女の片割れの女のように思われる。それでは、小説の最後にならないのではないか。 

宮はどうなったのであろうか。「続金色夜叉」で、貫一と宮は会っている。それも宮は後悔のあまり貫一に謝っている。身悶えして縋る宮を、貫一は「自分で死ね」と言い放っている。熱海の海岸よりもすごい修羅場である。もはや狂気人たる貫一である。更に、貫一を慕う金貸しの満枝が「あなたを殺してしまいたい」と修羅場を演じ始める。その後三人が入り乱れて訳の分からない修羅場が繰り広げられる。「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取って、私の手に持たせて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、早く取って下さい」と宮は言っている。なんだか分からないがすごい迫力がある。結局、宮は自殺する。「宮、待っていろ、俺も死ぬぞ、・・來世二人が夫婦に成る・・」ただ、最後の文が『不思議に驚くとなれば目覚めぬ。覚むれば暁の夢なり』と書いてあって、宮の自殺は夢の中の出来事なのであろう。ただ、夢の中であっても修羅場の迫力は貫一に宮への愛を取り戻させたのであろうか。 

結局、宮の最後は分からない。どうも、本「金色夜叉」は未完である。こうして読んでみると、「金色夜叉」は江戸時代の戯作作品から抜け出ようとする通俗小説の傑作である。通俗小説と言っても純文学小説に劣ることなどない。それぞれの面白さに違いがあるとは言え、読者には同等な小説の質である。ずっと以前、確か、渡辺淳一の「失楽園」という不倫を描いた朝刊小説を楽しみに読んでいたのと同等な小説の質である。なお、「作家の採点簿」なる点数で作家を評価する評論家が、渡辺淳一に最低点を与えている。きっと、ご都合主義の筋と描く文章の稚拙さを許せなかったに違いない。「金色夜叉」を書いた尾崎紅葉は、渡辺淳一以上の最低点を取るであろうか。でも、点数では表せない小説としての修羅場が相当の昔にきちんと描かれている、通俗小説としての模範である、と私は言い切りたい。三島由紀夫の上質な通俗小説よりも高評価したい。ただ、一度、読み飛ばさずに速読して全内容を把握したいものである。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。