意味と無意味

題:モーリス・メルロー=ポンティ著 永戸多喜雄訳 「意味と無意味」を読んで

意味とは何かについて書かれている、と期待して読んでみる。もう殆ど忘れたが、ジル・ドゥルーズの「意味の論理学」みたいな意味について論じていると思っていた。ところが、本書は哲学的なエッセイ、もしくは短論文であって「作品」、「思想」、「政治」と区分けされて、13のエッセイや短論文から成り立っている。絵画や小説や政治、特にマルスクス主義について語っている。著者は人間が世界に投げ掛けられている状況を捕らえて、実存主義の現況を説明すると同時に歴史的なマルク主主義の行動を批判的に論じて、真のマルクス主義とは何かと問い掛けてかつ答えている。マルクス主義は希望でありプロレタリアを救うものであったはずが、戦後ロシアにおいてもアメリカの大衆運動にも、プロレタリアは犠牲的な位置に置かれている。人間の世界が可能であるとの自信は持っていないと著者は述べている。結局、無意味とは希望なるマルクス主義を実現できないこの戦後の状況であり、セザンヌが作品に描くように物自体が提示し欲求していることを開放することが意味なのである。ただ、著者は「序文」にて、『人間もまた、危険と任務とを測りさえすれば、勝利をものにすることが出来るのだ』と未来への希望を述べているが・・。

モーリス・メルロー=ポンティの原文の難しさのためか、訳文がぎこちないためか 文章は飛んで切断されいて、かつ硬い言葉を課されていて分かりにくい。詩的言語でもない、論理性を含んでいるために正確に把握して論じるには、とても分かりにくい文章である。メルロー=ポンティの訳文の本は何冊か読んだことがあるが、事細かに論理的に論じていたと記憶しているが・・。取りあえず、気になった短論文だけを簡単に紹介したい。でも、メルロー=ポンティが主眼として論じているのは、戦中戦後のマルクス主義、人間を救うはずのマルクス主義の運動の実体とその役割の評価と期待である。意味があるとするなら、この主義が真にプロレタリアの未来に果たすことのできるという大いなる期待なのであろう。

「セザンヌの疑惑」では、メルロー=ポンティは、セザンヌはかれの眼に映じた世界そのもの中で、かれに提示されていた意味を開放したにすぎないと述べている。この意味とはそれらが言おうと欲していたことである。こうしてセザンヌの経歴に話が及び、彼は絆を失い人間の中で異邦人にならなければならなかったと述べ、投企は自由な選択による自発的なものと思われがちであるが、選択は出生の時に成されていたとする。こうして自由について論じているが、我々は限定されていないけれど、自らの内に自分のなっているものの予告を見出しているとして、やはり決定論的な立場を取っている。「セザンヌの疑惑」とは絵画に自らの目と思いによって真実に描こうとしたセザンヌの真摯な態度そのものを指していると思われる。「小説と形而上学」では、シモーヌ・ド・ボヴォアールの小説「招かれた女」における二人の男女に、招かれた女を加えたこのトリオなる三人を通じて、意識、他者と倫理を論じて、実存主義へと展開している。「悪評作家」とはサルトルのことで、「嘔吐」などを通じて人間の創造と政治について述べている。

「映画と新しい心理学」では、古典的な心理学はいくつかの感覚の集積またはモザイクとみなして、個々の感覚はそれに通じる局所的な刺激に左右されているとする。一方ゲシュタルト心理学では感覚の概念を排除することによって、形態理論は記号と意味、感じられるものと判断されるものをもはや区別しないとして、網膜を通じた感覚について、そして映画について論じている。メルロー=ポンティの大著「知覚の現象学」(まだ読んでいないが)に通じるものがあるはずである。「ヘーゲルにおける実存主義」では、ヘーゲルにおいては自己に委ねられて、自己に理解しようとする生命であると言う意味で実存主義が存在するとして、ヘーゲル著「精神現象学」は人間が自己を取り戻すための努力を重ねていると述べている。「実存主義論議」では、なぜ実存主義がマルクス主義に接近するかについて、ルフェーヴルの思想を通じて論じている。そう言えばサルトル著「実存主義とはヒューマニズムである」を読むと共産主義を行動基準に採用している、その無謀さに癖々したことを思い出す。メルロー=ポンティは、マルクス主義は自律と依存とを同時に確立する新しい意識の概念を要求しており、実存主義を窒息させる代わりに実存主義的な探求を救い上げて統合すべきと結論付けている。

「人間における形而上的なもの」では、ゲシュタルト心理学を事物としての実存と意識としての実存を混合体に似たものとして再び心理学的認識を新しい方式で生気を与えるものだとする一方、言語について論じている。言語は内面なき事実のモザイクでありながら、一つの総体でもあるとし、言語は個々の主体のまわりで回りながら中心には主体や投企も見出されなければならないとする。主体の交流の意志にとってこそ、言語は事実の多様性の中に志向や照準を見出すことができて、これは心理学の事物と意識の実存としての混合体に相当するのである。そして真理や価値、宗教などを通じて人間として形而上的な意識について論じている。「マルクス主義をめぐって」では、主にマルク主主義の歴史と思想的な解析を行っている。チエリ・モーニエ著「暴力と意識」を参考にしながら、モーラス主義について引用しながら、マルクス主義の偉大さに、文化史と経済史の統合について、生産と労働の人間活動や社会構造について論述している。

「マルクス主義と哲学」では、真正なマルクス主義について述べている。簡単に言えば、歴史の運動の中で人間が自分自身と世界とを自分に取り戻すことなのである。この短論文は結構気合が入っていて、人間と社会と経済の関りについて書いている。なお、哲学するとは実存する仕方がさまざまあることの一つでもある。その他「政治」についての短論文の紹介については省略したい。これらは戦争についてのエッセイでもあり、政治的な状況とその批判を含んでいる。それにしても本当に硬くて分かりにくい本である。どうやら新しい翻訳本がある。

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。