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題:阿部公房著 「砂の女」を読んで

読んでみて驚いている。昔は感動していた小説が、無念であるけれど、まったくの駄作に思われてしかたがない。少し考えてみたが、文章そのものの平凡さに表現されている観念なるものの平凡さに起因するものと思われる。つまり、もはや本小説の観念は殆ど陳腐化されているし、記述している文章は乾燥していて、情緒や律動性も持たない説明文になっている。例えば、観念小説では、ミシェル・トゥルニエの「フライデーあるいは太平洋の冥界」のように、生きた文章を持っていなければならない。それ以上に、謎に満ちているこの世界を、謎に満ちてかつ明晰に描き切らなければならない。この描かれている世界が明晰に解釈を迫ってくることこそが、観念小説なのである。

本書のあらすじを簡単に述べると、昆虫採集に来ていた学校の先生が、砂の中に閉じ込められる。この砂の中の家には女が居て、一緒に住むことになる。どうもこの家は、この家の属する部落、もしくは村の他の一部の家と共に、共同体に押し寄せて来る砂を除去する防波堤的な役割を担っている。その代わりに部落から食料などの支援を受けているのである。彼らは部落から監視されている。砂の穴に落ち込んだ男は女と性的関係を持ちながら、女が丁重におもねっても、砂を除去する労働を行いつつ、脱出の機会を伺っている。そしてある機会に縄はしごを伝って逃走に成功する。だが、塩あんこという泥沼に浸かって、部落の人間に助け出される。無論、穴の中に戻される。その後、男はラジオを手に入れ、水を留め置く装置のことなどを考えている。もはや、逃げ出すのはまた明日にでも考えれば良いと思うようになってくる。

本小説の最大の欠点は、非日常の世界に日常の道徳や価値観を持ち込んでいることである。男は同僚が行方不明を警察に通報し探してくれると信じている、学校の先生は偉いなどの通俗的な思考を随所に述べて叫んでいる。でも、カフカの「審判」や「城」などでは、日常的な世界の価値観は非日常的な世界では絶たれている、もしくは持つ意味や価値を変えられていて、読み始めるなり、すんなりと非日常的となっている日常世界へ入り込むことができるのである。この非日常的世界では喜びや悲しみなどの単純な感情だけがある。

そして「砂の女」と題名するからには、女が概念的ではなくて生きて描写されなければならない。本書での女の描写はありきたりで、特にどうということもない。会話も当たり前であって、砂を運び出す女の執念を、穴に閉じ込められて生き続けられない自らの運命を、「これしかないのよ」と言うような機械的な言葉で言うだけである。生きた言葉で語らなければならない。女が妊娠したと記憶しているが、その喜びや悲しみに戦う姿など、運命を果敢に生きる女を適切に表現しなければならない。適切とは存在が迫ってくる肉感的か、逆に薄紙のように希薄な存在のどちらでも描くことができる。つまり砂の中に埋もれて生きる女そのものが適切に表現されていないのでる。

観念は移り行くものである。例えばマルクス主義や実存主義はもはや昔の思想であるし、砂ももはや昔のイメージである。ただ、新たなイメージや概念を砂などこれらに組み入れれば、まったく新しいものとして甦るだろう。そうした砂に対する斬新な観念が求められる、もしくは普遍的な物のイメージとしての砂の描写が必要とされている。「?」なる疑問符の多い文章は味気なくて質が落ちる。メタファーも安直である。本小説の着眼点はとても良いはずなのに、もはや古臭いものになっている。できればこの着眼点を元に本小説を描き直してみたい思いが募る、けれどもそこまですれば越権行為になるかもしれない。こうして、昔読んで本を再読すると評価は変わる、ただ、ここまで落胆させられたのは初めてである。

阿部公房の「ここに幽霊がいる」などはサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」などから着想を得ていると思われてしかたがない。サミュエル・ベケットの小説は殆ど読んでいるけれど、阿部公房の作品はほんの一部しか読んでいないために、良く分からない。こうしてみると名作と呼ばれる作品は、いつ読んでも色褪せることのない文章力による心に食い込んでくる感受性を備えていると痛感させられる。文章力そのものが感受性や観念を含んでいて時が経過しても色褪せないに違いない。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。