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題:ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著 杉村唱昭訳「政治と精神分析」を 読んで

久しぶりにドゥルーズとガタリの本を読む、もうドゥルーズの著書で読んでいないのは、「シネマ1 運動イメージ」と「シネマ2 時間イメージ」くらいである。できるだけ読んだ本の感想を記述して理解するように努めていたが、どれだけ理解できているかは分からない。むしろ、記憶がおぼろになり、理解できないまま忘れ去っていることも多いのではないだろうか。この本を読んだ時は、ガタリの硬直な理解し難い文章表現もあったし、調べないと分からないこともあった。この著書の思想を下地にして緻密に展開されている「千のプラトー 上」の「いくつかの記号の体制」を読んでみると、遥かに本書は難かしさをそのまま表出していて、短時間の一度の読書では細かに理解できなかったのである。 

以上、述べたように本書は精神分析と政治を主に、シニフィアン(記号表現であり意味しているもの、シニフィエの記号内容であり意味されているものとの対語)の位置の絡めて論じている短い四つの論文を掲載している。ドゥルーズと言うよりガタリが主体になっている本である。まあ、ドゥルーズとガタリは精神分析と政治を主テーマに「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」を記述したのであり、その先駆けとしての発表された論文である。本書の四つの短論文とは「精神分析と政治」、「精神分析に関する四つの提言」、「言表の解釈」、更に「制度におけるシニフィアンの位置」である。 

これらの短論文についてその内容を短く紹介したい。「精神分析と政治」では欲望の政治と革命的政治を精神分析の観点から論じている。革命的ではない欲望が政治経済的目標となるのであり、フロイト主義やマルクス主義ではこの欲望の政治が十分に論じられていないと言う。そして、無意識について論じる。無意識とは正の価値しか持ちえない、流れと強度の論理なのであるとガタリは主張して、このフロイト的な精神分析は出発のときから無意識の欲望を断罪しているのである。純粋な強度としての欲望は主体も客体も知らない、それは流れであり強度なのである。男や女、子供と成人などの二極的なシステムにきりちぢめられた個人的な言表行為に対して、集団的言表行為とは、つまりリビドーの集団的補給とは、社会的な間口を広げて、たえず拡大する多数多様性の世界に結合するのであると最後に結んでいる。これこそが欲望の政治を実現するとガタリは言いたいに違いない。なお「制度におけるシニフィアンの位置」にも関連する記述がある。 

「精神分析に関する四つの提言」はドゥルーズが記述したもので、表題の通りに四つの提言を行っている。1)精神分析は無意識を切り縮め破壊し払いのけている。欲望には主体もなく対象もない、ただ流れだけが欲望自体の客観性となる。2)記号(言表)が多様体(欲望)を共示し、流れを導き、欲望の物質的な生産である。3)精神分析には解釈と主観化の二つの機能があるが、この機能を実現させる機械は病を維持し増殖させる技術を持ち、オイデップスとか去勢とかの精神分析のコードは、そのために作られたものである。4)真の反精神分析的分析の問題は、無意識的欲望がこの経済全体の形態にどのように性的に備給するかを証明することである。「言表の解釈」ではハンスなる子供が述べる馬などの話を精神分析家が解釈し上下段位分けて記述している。どこかで読んだ記憶があり省略する。 

「制度におけるシニフィアンの位置」は「千のプラトー(上)」の「いくつかの記号の体制」の導入編みたいなものである。図も異なっていて「いくつかの記号の体制」の方がはるかに緻密に記述されている。ガタリの文章では、形式を素材または意味の上に投射するとき、ある実質が記号的に形成される。この記号の形式的構成は意味された内容の形式化に結びついていると述べている。つまり、簡単に述べると、記号は形式(音声や文字など)と実質なる意味(伝達する情報や意図)に不可分に結びついているのであり、いわゆる表現と内容が意味作用として関係しているのである。この記号の表現と内容はシニフィアン、シニフィエと呼ばれるものである。ガタリは非記号的に形成された素材があることを主張して、この素材が記号的に形成された実質と切断されることによって、シニフィアンの記号学や非シニフィアン的記号論とも異なった非記号論的コード化も含めて三つに分類して説明するのである。 

「非記号論的コード化」とは記号論的実質の構成とは無関係に機能する自然的ともいうべきあらゆるもののコード化である。「非シニフィアン的記号論」とはポストシニフィアン記号論であり、意味作用を生産する使命を帯びていない数学的記号、音楽的、芸術的といった類にものである。最後の三つ目は「意味形成の記号学」として、前シニフィアン的記号学とシニフィアンの記号学に分けられている。記号とものごとは言表行為の個人化された作用因子の主観的な抱え込みとは無関係に相互に配備を行い、そして言表行為の集団的配備はひとつの集団的な言葉をすえつけるのである。こうして欲望の集団的配備はもはや法、責任性、超自我の無意識的報復など従来と関係を持たないひとつの主観性をあらわすものとなり、欲望が打ち砕かれることはなくなる。そうなるからこそ制度の分析とは制度と社会の総体のなかにおける欲望の位置を保護し整備することになるほかない、とガタリは主張するのである。 

本書を読んで、確かに分かったことは、記号論は構造主義哲学に含まれるというより、一つの哲学的対象として読み解き調べなければ、理解は常に困難性を伴うということである。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。