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題:ド・クインシー著 野島秀勝訳「阿片常用者の告白」を読んで

ジル・ドゥルーズが結構取り上げている文学作品とその作家について、日本人哲学者や文学者がドゥルーズとの思想と絡めて論じている「千の文学」なる本が発刊されている。この本には約40人の作家について記述されている。でも、約10名については読んだことがない。これら読んだことない作家の作品を読もうとして仕入れた本の一つが本書である。結論から述べると、前半が抒情的な散文で、後半の阿片中毒の話が記述されている。阿片中毒の話は阿片の量を減らして、結局止めたと言っている。でも実際には常用していたらしい。他の阿片中毒者の参考になるかは不確かである。それ以上に、前半の抒情的散文に魅力がある。訳者による解説もド・クインシーは散文の達人であったと述べている。なお、本書の原文には三倍の量のある増補版がある、けれど、量は多くても簡潔さに難点があり本書を選んだとのこと、もっともと思われる。本書は「告白」として、1822年に発刊されている。増補版は1856年に発刊されている。

前半の抒情的散文とは訳者の文章から引用すると、後見人との確執、グラマースクールからの遁走、ウェールズ放浪、ロンドンでの飢餓生活、オックスフォード通りでのアンとの物語である。アンの物語は心に残る。飢餓生活において著者は、十六歳にもならない若い売春婦アンの助けを受けた。アンは自らの乏しい財布から金をはたいて気付け薬として葡萄酒を買ってくれたのである。そして何週間も一緒に通りを歩いていた。金を借りる算段として著者が遠くに出掛けなければならなくなった時、再開を約束して別れる。でも、二度と会うことができなかったのである。アンの苗字を聞いていなかったので探しても見つからない。このアンはクインシーの心からもはや決して離れることがない、美しい物語なのである。その他の話は省略したい。なお、麻薬の話は主に日ごとの摂取量の増減についての話である。

訳者野島秀勝の解説では、ド・クインシーはコウリッジと書簡のやり取りをしていたとのこと。コウリッジと言えば幻想詩「クーブラ・カーン」なる詩を思い出す。訳者によると、コウリッジも麻薬を常用していたとのこと。当時、麻薬は現在ほど取り締まりも厳しくなく、薬局に売っており、歯痛など痛み止めなどに結構使用されていたらしい。その後次第に取り締まりは厳しくなっていったとのこと。コウリッジはド・クインシーの気質を次のように評している。「切々としていながら遅々としており、あまりにも正確さを期して混乱し、筋が通っていると同時に迷宮的」とのこと。言い得ているとも思われるが、言い得ていないとも思われる。つまりコウリッジは対言語を用いて表現することで曖昧性を前面に押し出し、言い得ていると錯覚させている。ボードレールもこの本を愛読していたらしい。なお、ボードレールはハシーシ(大麻)の作用について記述しているとのこと。訳者野島秀勝は美しい文章で解説を書いているのでぜひ参照して頂きたい。

「千の文学」では西脇雅彦が「ド・クインシー ライプニッツ的哲学者」と題して短論文を書いている。そう言えば本書ド・クインシーは自らを哲学者と評している。カント哲学を研究していて挫折した過去を持つようだ。この短論文について簡単に述べると、ドゥルーズは「襞――ライプニッツとバロック」で知覚について「分子状の知覚」と「モル状の知覚」を述べているが、これはライプニッツの「表象」ないし「微小表象」と「意識表象」に対応している。そして、この分子状の知覚=微小表象はド・クインシーによって表現されているとドゥルーズが述べていたということだ。なお、この知覚について記述した哲学書や心理学所は結構出版されている。その中でもメルロ=ポンティーの「知覚の現象学」が一番体系だっているように思われる。

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。