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題:阿満利麿著 「宗教の深層 聖なるものへの衝動」を読んで

知らない著者であまり期待していなかったが、読んでみると宗教意識としての聖なるものへの衝動というより、五人の民俗学者や作家の思想などを的確に捕らえていて、かつ簡明に記述している良い本である。五人とは折口信夫と柳田國男、本居宣長、夏目漱石、清沢満之である。特に夏目漱石に関しては、独自に一冊文芸評論として記述すれば、江藤淳の「夏目漱石論」よりも雑多な漱石に関する人生事実は少なくとも、夏目漱石の心の内側を高度に哲学的表現ができたはずである。

宗教とは神への意識である。著者は民俗学者であるためか、序章として「神々の島」沖縄における宗教儀式の実体験から述べ始まる。この神話共同体における実体験は貴重なものであろう。神とユタ(シャーマンのこと)の関係など、これらの儀式の詳細は本書参照のこと。さて、著者は民俗学者としての折口信夫と柳田國男について述べる。柳田国男の祖霊論には人間が祖霊になり神になっていくという、人間との連続性が強いのである。これに対して、折口信夫は「たま」(外来魂)は外からやって来る、超自然的で非人格的で、連続性よりも断絶性が強いと指摘している。柳田国男は現世の人間が存在して、その延長線上に、祖霊や神が登場する。これに対して折口信夫は他界(あの世)があり、そこから発する「たま」があり、そののち人間が登場する。この指摘は大いに参考になる。こうして魂を中心に著者は浄土真宗の教義を含めて、この二人を論じ展開している。

更に著者は近世におて『宗教のもっている救済原理の否定と、それに代わる現生の人間生活の絶対化、つまり現生主義の優越』が生じて、これが宗教の世俗化の始まりであり、本居宣長をその先駆者と捕らえる。簡単に述べると宣長の浄土教における歌を示して、この歌は省略するが『宣長のこの理解は、法然の、人間は欲望のあるがままで阿弥陀仏にすくいとられる、という考え方と同じである』即ち、浄土教においては、この世に生きている間に自らの努力で悟りをひらくことのできない人間のために開かれた仏教であり、阿弥陀仏を信じてただ念仏することである。人間の有限とは煩悩の身であり、「凡夫」であるとの自覚が生じて、わが力を頼むということは起こり得ない、このような凡夫にも救済があるのである。こうした法然にとっての念仏に相当するのが宣長にとっては和歌である。宣長にとって和歌のよしあしを決めるのが「物のあわれ」となる。「物のあわれ」とは「事にふれて心の動くこ」とである。ただ、著者は本居宣長によって近世における人間の救済願望の弱まり、逆に人間は自らの生の過程に十分充足できる観点を持つことができるようになったとして指摘して詳しく論じている。

ここで横道に逸れるが、「凡夫」について、奈良時代に僧景戒によって書かれた「日本霊異記」における「凡夫」の思想とほぼ同じである。ただ、僧景戒における「凡夫」とは、悟り方の相違ではない、少なからず階級論や差別論を含んでいる。仏教において悟りには段階があるのとも若干異なっている。即ち、僧景戒が述べる「凡夫」とは、聖、天皇と異なって、悟りの拓けないただの人間が、即ち凡夫なのである、これに対して、聖、天皇は悟りの境地を得ている、飲食など思うままに何事も成すこともできるし、凶事が生じても絶対に咎められない聖人なる特別な階級である。遠い昔の時代故に、こうした既に悟りを得た者を入れ込んで、善悪、因果応報を説くこと、奇譚を述べることは意味のあることであったのだろう。ただ「日本霊異記」はこうした根底の思想に関心を持たずに取り除けば、奇譚なのであって、シュールリアリズム(超現実主義)な話を集めたものとして楽しめることができる。無論平安朝初期における「凡夫」思想の理解の成され方が分かる。

夏目漱石に関しては、哲学的に論じていて面白い。私がこのように思考し記述してみたいという原型をなしている。私を意識の連続体と捕らえて、W.ジェームズやベルグソンも加えて、意識の行者と断じている。意識を客体化した『純客観の目が、晩年になるに従がい、ますますあたたかさを帯びてくる』と述べていることはまさしくその通りである。こうした漱石に関する記述内容は割愛する。清沢満之については日本での初めての宗教哲学者としている。『絶対的な因は、絶対的な力によって生じるのであり、不動心とは、絶対的な力を信ずることによって生じる』との清沢満之の言葉が関心を引くが、それほど深い内容のあるものではない。むしろ、『理詰めの煩悩もまた、煩悩である』との言い方の方が軽妙である。

本書の横帯に記述されている『近代における求道の痕をたどり、理性を希求してやまない人間の宗教意識の根源に迫る』との文言は、意味が少しずれているが、即ち、求道の精神なるものの宗教意識を本書は記述していると言い難い。道を求めるのではなくて、葛藤やその他の感情などを含む意識そのものの流れを持つ存在の存在論の一部として捕らえ深める方がより説得力を持つようになったと思われる。でも著者の述べているように『世界と人間の在り方を根本的に納得しようとする、世界観的要求のあらわれ』として捕らえれば、また、宗教を聖なるものへの憧れとして捕らえれば、まさしくその通りなのである。でも、この宗教への憧れの謎を解き明かさなければならない。こうした宗教的観点も含めて思想した哲学者は結構いるはずであるが、ベルグソンとジョルジュ・バタイユだけはすぐに思い出すことができる。

以上

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読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。