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題:エマニュエル・レヴィナス著 合田正人/谷口博史訳「われわれのあいだで」を読んで

レヴィナスの「神・死・時間」は、講義録をまとめたものであった。本書「われわれのあいだで」は、短論文を20ほどまとめたものである。本書の横帯には次のように記述されている。『《他者に向けて思考すること》をめぐって フッサール、ハイデガー、ベルグソンらの思想との格闘をつうじて混迷する現代社会の道徳と政治に一条の希望の光をもたらす。1950-80年代におけるレヴィナスの思索を集成する』即ち、30年間にわたる短論文を集めたもので、他者に向けた思考でありながら、「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」のように思想が纏められ展開されているのではなくて、長年にわたって変遷し展開していく思想の痕跡である。従って、分かりにくいレヴィナスの思想がより細切れになってより分かりにくいが、それでも彼の全体の思想のうちの、一部な細部の思想がそれなりに細かく記述されている。レヴィナスを読む場合は、まずは「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」を読むべきなのであろうが、これらの本を読む時の理解に、本書はある程度の支援をしてくれるはずである。そうした観点から、序言を除いて20もある論文やインタヴューの内、関心を持ったもののみについて簡単に内容を紹介したい。簡単であるために説明不足であることは注意されたい。

「序論」ではレヴィナスは出発点として動詞としての存在をあげている。動詞は存在するプロセスとして、存在すると言う出来事ないし冒険として存在が捕らえられるのである。そして、人間によって生きられる生のうちに生じる偶発的な出来事は、他なるものへに自己を捧げることを本義としている。人間の実存においては他者のために身代わりになる一者の可能性であり、この可能性こそが倫理という出来事なのである。人間の実存の内には他者のために実存することという死の脅威よりも強き使命が存している。この主張こそがまがうことなきレヴィナスの核心の思想であろう。

「存在論は根源的か」では、ハイデガーの存在論から始まる。ハイデガーの存在論は存在者を存在の次元で認識することであり、存在了解とはこのような認識によって唯一実在するものである特殊な事物と関わることである。即ち、この存在者同士の関係は存在者を存在者として了解し存在者を存在者として自由にあらしめるのである。ただ、唯一の例外は他者である。こうしてレヴィナスはハイデガーの意味する存在者と他者との違いについて論じていく。他者は了解の対象であり呼びかけによって語りかけることと不可分の関係にあり、彼に語りかけることによって彼は私の連帯者になる。他者との関係は存在論ではない。他者との絆は他者を表象するのではなく他者に請願することである。この絆において了解が請願に先立つことがなく、この絆こそを宗教と呼ぶ。そして言語の本質は祈りである。存在者との関係は顔への請願でありすでに発語していることなのである。こうしてみるとレヴィナスのこの初期論文は、他者との思想の根幹を示している。請願と言う思想は彼の根幹を成していて、その後他者への責任に関わる思想へと発展していったのであろう。

「自我と全体性」では、思考の有無から記述されている。ある特殊な存在が自分を一個の全体としてみなし得るのは、この存在が思考を欠いている場合のみである。即ち、思考する存在は全体を認識し関係付けようとするのだが、自らの特殊性と全体性を混同している。混同させているものこそが生なのである。意識が外部を認識し始める時に思考は始まり、摂取することのできない外部との関係を確立している。即ち、自己意識は内的システムとは無縁なものとして外部を思考し外部を表象できるのである。こうして思考する存在は外部と内部の全体と関わりながら実存するとはいえ、全体からは分離されて留まる自我であり続ける。なぜなら外部の内部への侵入は、生体の意識それ自体の消失である死であるためだ。この自我と全体との関係は思考の道徳的諸条件の記述に帰着するとレヴィナスは述べているが、私の所有物ならざる事物、この事物と関わっている複数の人間との関係が自我と全体の関係であり、この関係が正義の業で実現されるために倫理的なのである。こうしてレヴィナスは罪障性や無辜、法や慈悲、宗教や全体性、身体と意志などについて述べている。

幾つかレヴィナスとのインタビューが掲載されているが分かり良い。問いもまたふるっている。例えば「哲学、正義、愛」では他者の顔と絡めた愛、神、国家などに関して話している。「死刑執行人」も顔を持つかとの問いに、「死刑執行人」は隣人を脅かす者、この意味において暴力を呼び寄せる者であり〈顔〉を持たない。ただ、「間主観性の非対象性」と呼んでいる自我の例外的な位置があるとのこと。この例外によるのか、正義を起点としてある程度の必要な暴力は存在すると答えている。ただし、人間同士の関係が不可能である全体主義的な国家ではない、暴力を制限する国家において数々の制度を認めなければなない。即ち、このような国家のうちに正義伴うとして暴力的な必要部分が存在するのである。

「非志向的意識」では、レヴィナスが思想の礎として負っているフッサールの意識を動かす志向性という概念から始まっている。ここの文章は抜き書きしたい。『意味の地平は、思考されるもののなかに思考が吸収されるならば掻き消えてしまう。思考されるものとはつねに存在の意味作用を担うものである。掻き消された意味の地平は、志向性という分析によって再び見出される。すなわち志向的分析は、存在者と存在の地平を忘却した思考を反省して検討し、この意味の地平を甦らせるのである』では、非志向的意識とは何か。志向性としての世界や諸客体に向かう意識は間接的に自分自身にとっての意識でもある。世界や諸客体を再現前化する能動的な自我についての、再現現前化の作用そのものの、心的活動ととしての意識である。ところが間接的なものであれば媒体を欠いていて、暗黙のものであれば思考目標を欠いているのである。この非志向的な意識は混乱した表象として考察され、志向的意識によって世界それ自身を表象するものとして変えることができる。ただ、志向的なものに付随して体験させられる非志向的な意識の真の意味を問うことはできて、この問いの答えをレヴィナスは論じている。そもそも意識とは自己についての知を意味するより、むしろ現前の消失もしくは控えめな現前そのものなのである。即ち、告発されるべき罪人性について述べているが、自己の現前そのものが責めを負う疚(やま)しい意識であり、前反省的な非志向的な意識なのである。この非志向的な意識は自己の現前そのものの責を負うとする。こうした非志向的な意識についての思想はレヴィナス独特のものかもしれない。

内容の紹介はここまでとしたい。最初にも述べたように、レヴィナスの思想を理解するためには結構役に立つ本である。ただ、細部まで正確に読み解くには難しい。時間と調べる手間ひまが掛かる。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。