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「バリ山行」あるいは社会からの逃避

最初に「バリ山行」という字面を見た時、自分と関わりのある話だとは全く思わなかった。「バリ」はインドネシアの島のことだと思ったし、「山行」は見過ごした。芥川賞受賞作品という情報は得ていたものの、Xで周囲がざわつき始めるまで「バリエーション登山」のことであると気づかなかった。

それだけその単語は私に馴染みのないものだった。定期的に山に登る人たちにとって、「山行」は頻出単語だ。おおよそ山に行くことを意味し、「登山」と大きな違いはないだろう。「日帰り山行」「山行計画」といった言葉は、どちらも「山行」を「登山」で置換できる。ただ、一般にはあまり知られていない単語であり、そのため私はこれまで常に「やまいき」とタイプし「山行」と変換してきた。

「バリ」は「バリエーション」の略で、これは一般的な登山道を基本とした時にそのバリエーションとなるルート(登路)を指す。つまり、基準となるのは多くの人が登り、山と高原地図やガイドブックで紹介されているようなよく整備されたメジャールートであり、「バリ」はその他のマイナールートのような位置付けになる。ただ、この言葉が示す範囲は広く、沢筋や岩場が登路となる場合もあることから、それらを目的とした別ジャンルである「沢登り」や「岩登り(ロッククライミング)」も広義では含まれることになる。

また、登山道が埋まるような量の雪が降る山域では、冬のノーマルルートと呼ばれるようなルートもあるものの、他の誰かが雪を踏んでいなければ、自分でルートファインディングが必要な実質的な「バリ」になりうる。前置きが長くなったが、そういう意味で私は「バリ山行」をやる。そのため、身近な題材であること、またこのようなマイナー登山を題材とした作品が、芥川賞のようなメジャーな場で評価されたということも気になった。

なにより、私の興味を引いたのはAmazonにあった次のような問いかけである。

「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」

はぁ~?何言っちゃってんの?

と激高しつつ、私はこの本をポチった。正直なところ、私自身これまでウェブ上で何度となく、このような批判を投げかけられてきた。そのため、私なりの答えは既にあった。ただ、このセリフがどのような文脈でどのような人物に投げかけられ、その人がこれにどのような反応したのかがとても気になった。

そして、3日前この本が届き、昨日読み終えた。結論から言うと、本書でこの問いかけに対する明確な回答は示されなかった。ネタバレになるので、ストーリーの詳細に関する言及は避けるが、だいたいのストーリーラインはこうだ。

古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年。会社の付き合いを極力避けてきた波多は同僚に誘われるまま六甲山登山に参加する。その後、社内登山グループは正式な登山部となり、波多も親睦を図る目的の気楽な活動をするようになっていたが、職人気質で職場で変人扱いされ孤立しているベテラン社員妻鹿があえて登山路を外れる難易度の高い登山「バリ山行」をしていることを知ると……。

Amazonの商品説明より

そして、前述の罵声は主人公である波多(たぶん「ハタ」)から妻鹿(「メガ」と読む)に投げかけられたものである。他にも何人かの登場人物がいるが、めんどくさいのでここでは2人に絞って書き進める。その前に少しだけ横道に逸れると、登場人物の名前のほとんどが登山家(新田次郎は小説家)に由来していそうだ。具体的には、以下のようになる。

栗城(史多)、槇(有恒)、藤木(九三)、難波(康子)、谷口(けい)、花谷(泰広)、植村(直己)、松浦(輝夫)、服部(文祥)、山田(昇)、佐藤(裕介)、板倉(勝宣)、森田(勝)、(アンドリュー・)アーヴィン、新田(次郎)
※順不同でカッコ内は私の推定

とはいえ、例外もあり、多聞と主人公の波多、キーパーソンでバリ登山者の妻鹿だけは(たぶん)このパターンが当てはまらない。ただ、登山アプリ「ヤマレコ」のハンドルネームがそれぞれ「タモンベル」(多聞)、「ハタゴニア」(波多)なので、彼らはメーカー由来なのかもしれない。それでも、妻鹿の「MEGADETH」だけは謎として残る…。

さて、本題に戻ろう。私にとってこの小説のテーマは、リアルとは何かということである。ほとんどの登山者がそうであるように、私は街で生活しつつ、時折山に登っている。別の言い方をすると、街で仕事をしつつ、山に遊びに行っていると表現することもできる。生きるために必要なのは仕事で、仕事があるから山に登れるというのが波多の妻鹿に対する指摘である。ただ、果たしてそれほど単純だろうか?

そこに入っていく前に、少し物語の背景について語りたい。この小説の背景ではなく、リアルな登山の世界の置かれた背景についてだ。2016年の総務局のデータによると、15 歳以上の「登山・ハイキング」の行動者は約972万人。一億人以上いる日本の人口からするとわずか10%未満で、コロナ禍を経てさらに減ったことが予想される。その中でさらにバリエーション登山者となると、正確な数はわからないが、数はかなり絞られるだろう。

人口分布(上に行くほど少なくなる)

誤解を避けるために上図について述べると、これは人数を表すものであり、階級や偉さを表すものではない。とはいえ、もう少し正直になると、そういう意味合いもなくはない。一般登山道を歩く行為はハッキリ言ってやさしい。よく踏まれ整備されている道は歩きやすく、分岐には案内板があり、それに従ってただ歩くだけである。

バリは薄い踏み跡や獣道、もっと深くなれば沢や岩、雪の斜面といったありのままの自然、つまり人が歩くことを想定していない自然が対象になる。そのため、ナビゲーションやロープワークなど、様々な知識や技術が必要になる。そのため、バリ登山者がそれ以外を下に見るということは、往々にしてある。時としてそれは、当人たちにとって無意識に表現される。また、それは非登山者の世界、つまり街の生活にも向けられる。バリの人・妻鹿さんの言葉を以下にいくつか引用する。

「あれは本物だったでしょ?本物の危機、あれだよ」
※バリ山行の途中で吐かれた言葉

「会社がどうなるかとかさ、そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出してるもんだよ」

「間違いないものってさ、目の前の崖の手掛かりとか足掛かり、もうそれだけ」

妻鹿語録

山での失敗は即死につながるが、会社でのそれはそうではない。取引先への対応を誤ったり、上司と揉めても、それが社会的な死につながるのは少し先のことだし、ましてや生物学的な死につながることはもっとずっと先だろう(上司が激高して灰皿に手をかけたりしない限りは)。径とは自分で選び、切り拓くものだ。だからこそバリ山行はリアルで、それ以外はフェイクである。妻鹿の主張はどこか実存主義を思わせる。

駆け出しの登山者であり、社会生活に重きを置く波多からすると、これは自分への攻撃として捉えられるし、当然ながら反発が生じる。先述の「山は遊び」発言は、その発露のひとつだ。

この対立は、日本の登山シーンにおいて、あらゆる場面で見受けられる。それが最も顕著な形になって表れるのが、遭難報道である。まず、非登山者からの登山者批判というレイヤーがあり、次に登山道を外れない登山者からのバリ登山者批判(だいたい「私は雪山なんて怖くてとてもできませんが…」というような書き出しから展開される)というレイヤーがある。波多の場合はこうだ。

そもそも登山地図に載っていないような径を歩いても良いのだろうか

こんな低山をデタラメに、いくら彷徨ってみたところで、誰にも知られず、その困難さも過酷さも理解されることはない。誰にも褒められず認められず、それは完全な自己満足

妻鹿さんは振休で私は有休。つまりそれは会社の制度の中で、その枠の外ではない

波多の思考

私はどちらかというと妻鹿サイドにいる人間なので、これには反論したい。歩いていけないという法律がないのであれば、良いのだろう。ただ、山には利用を制限されうる私有地や公有地があるため、実際にはグレーな部分もあり、注意が必要だ。最終的には、それをどう解釈して行動し、またそれを外に表現するかは、自分で考えるべきだ

また、自己満足の何が悪いのかわからない。他者が満足することで、自己が満足する場合もある。しかし、自己満足はとても大切であり、自己存在に欠かせない。私にとって登山は、誰かのために行うものではないし、必ずしも社会に還元することを目的としない。褒められるためにやるものでもない(別に褒めてほしくないわけでもない…)。

有給云々に関していえば、それは捉え方次第だというところだ。業務時間外まで会社の枠組みの中にいるという考えが消えないのは、なんとも哀れである。総じて波多は、山を社会や経済といった生活の枠組みの中でしか捉えられない。一個体の生物として、山と対峙できない。

ここまで必死に妻鹿(というか私)を擁護してきたわけだが、波多の主張にも理はある。すなわち、生活は重要である。ニンゲンは社会的な生物であり、自然の中で独りで生き抜くには弱すぎる。だから人は安全な里で群れを作って行動するし、それが今ある会社や国家や社会であると思う。そして、そこでの評価は本来命にかかわるものだ。そのため、社会のルールにできるだけ依拠しようとする立場も理解できる。マイノリティとして社会の中で浮いてしまうこともまた、リアルな死に直結しうる

毎度のことながら、私にはわからない。何がリアルなのかも、これらの批判に対する妻鹿の答えも。私自身が今も、現実逃避のために山に登っているのかどうかすらわからない。過去を振り返ると、学生時代に就活で行き詰った時に登ったのは京都の裏山だったし、仕事が上手くいかなかった頃に登った富士山で登山にハマった。ただ、闘争と逃走はどちらも生きるための本能であり手段である。そう考えれば、バリ山行もしかりではないだろうか。

ご興味のある方は、六甲の山中やヤマレコに、あるいは小説の中に、妻鹿の軌跡をを探してみてほしい。

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