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倫理的で優しい人ほど勉強する

「勉強なんかしたって将来役に立たないじゃん」と言う生徒に対して、「いや、役に立つかもしれないよ」と言ってもたいてい聞いてくれない。もちろん生徒の本心は「勉強つまんない、イヤダ」という感情だけなのであり、将来役に立たないというのは自己正当化のための屁理屈にすぎない。しかしこの屁理屈をキッチリ論破するのは案外簡単ではない。私なりにいくつかの語り方を用意してみた。


【シナリオ1 社会的効用を説く】

数学や物理や化学の勉強に意味がないという生徒に対して。
「そりゃあ君にとっては意味がないかもしれないね。でも社会にとっては、科学技術の発展は必要不可欠なのだから、誰かがやらなきゃいけない。だからとりあえず全員に数学や理科の勉強をする機会を与えて、興味や適性のある人にはその道で社会に貢献してもらいたいんだよ。つまり、君にとっては意味がなくても、学校で数学や理科の勉強をさせることには社会的には十分な意味があるんです。」

これは結構効果がある。自分が苦手だからといって学校教育を否定するのは間違っている。ただ、あくまで実用的な理由なので、生徒をモチベートすることはできない。というより「学校に付いて行けない君はダメだけど、付いて行ける子たちにとっては意味がある」という話なので、モチベートされるわけがない。これはゴネる生徒を攻撃的に論破するときの話法だ。

【シナリオ2 内田樹話法】

「勉強することで世界の見え方が変わる。それは勉強する前には想像することができない。だから勉強することの価値は事前には分からない。まず勉強してみて、後になって初めて、ああこういう意味があったんだと気付くものなんだよ。だから、その先に何があるか分からないまま、きっと何かがあるはずだと信じて向かっていく姿勢が大切なんだ。」

これは個人的には大好きなお話なのだが、生徒には案外響かないらしい。ちょっとレトリックが効いているので、直線的に理解できる話ではないのだろう。よく寝かせて考えなければ腑に落ちないタイプの議論なのだと思う。深淵なことを言っているのだが、短慮の癖がついている小中学生たちはそこに気が付かない。第一印象が「ちょっと意味わかんない」だったときに、「もうちょっと考えてみよう」となるか、二度と思い出しもしないか、そういう所に知的な伸びしろがかかっていると思う。

ただ、このタイプの議論は実は小中学生はしょっちゅう言われている。「大人になれば分かるよ」とか言ってはぐらかされる経験をしている。内田論法もその亜種と言えないこともない。そして、「大人になれば分かるよ」と言われて気分良く納得できる子どもはいないだろう。そこが内田論法の弱さでもある。

【シナリオ3 勉強の仕方を勉強するのだ話法】

「大人になってからどんな仕事に就くか分からないし、社会情勢がどう変わるかも分からない。その中で適応して生きていくためには、その時々で必要な知識や技術を習得していかなければいけない。現時点では、どんな知識や技術が必要になるか分からない。だから、およそ勉強とはこうやってするものだということを学生のうちにしっかり掴んでおいてほしい。知識のインプットの仕方、それを活用して問題を解決する思考法、論理的に推論を立てる技術。そういう訓練をしておけば、将来どんな知識が必要になっても恐れる必要がない。いつでも新しい知識を習得できるという自信があれば、余裕をもって生きていくことができる。」

この論法は有名なものであり、たしかにもっともらしい。だが私に言わせれば、これが通用するのはせいぜい中学までだろう。勉強の仕方を勉強するという目的は中学までで十分果たせる。ではなぜ高校に通うのか?それはまた別の説明が必要になると思う。

高校で学習することはマニアックだ。漸化式のパターンごとの解法を覚えるとか、化学物質の結晶構造を幾何学的に分析するとか、数百年前の西洋の王朝の名前を覚えるとか、これほど詳細な勉強をしたがるほどの好奇心が一般的な高校生にあるとは到底思えない。そんなことよりも部活で試合に勝つこととか、身近な人間関係のこととかで頭は一杯のはずだ。高校で勉強のモチベーションが崩れるのはやむを得ない気がする。(私立中高一貫校に入学すると、理科などは顕著だが、いきなり高校レベルの知識を覚えさせられたりする。モチベーションが崩壊しやすいのはそういう学習内容とも関係があるように思う。)高校レベルの勉強に主体的に取り組むためには、もっと質の違う動機付けが必要なのではないかと思う。

高校生になるとさすがに小中学生みたいなガキではなくなる。面倒くさい駄々のこね方もしなくなる。言い訳せずに努力すべきだということは大抵の高校生はわきまえている。それだけでも高校生は大人だなと思うし、中学生よりもずっと指導しやすい。しかし、モチベーションが低空飛行の生徒はやはりいる。学習内容も高度になるし、一度落ちこぼれてしまうと這い上がるためには相当まとまったエネルギーを投下する必要があるのだが、そこまで頑張る意欲も湧かないケースが多い。習慣と惰性で人並みに勉強を続けていればどうということはないが、「今こんな勉強をしてることに何の意味があるんだろう」などと考え始めると案外深い沼に嵌るかもしれない。繰り返すが、高校で勉強していることは客観的に見てもかなりマニアックなものなのだ。

【シナリオ4 倫理的な人ほど勉強する】

高校で習うことは、高度な教養といっていいだろう。日常生活において必要な範囲をはるかに超えているし、おそらく仕事でも使うことは少ないだろう。ではどんなときに必要になるかというと、たとえば選挙のとき。選挙というのは真面目に考えると、かなり難しい判断をしなければならなくなる。政治、経済、社会問題、法律などの知識も必要になるし、自分はどのように暮らしたいか、社会はどうあるべきかといった見識が問われる。高度な教養が必要とされるのはこういう場面だ。

もっとも、ノリや気分で適当に投票している人もいるし、それでいいと思うのであれば教養はいらない。難しいことは偉い人や頭のいい人たちに任せていればいいという考え方もある。仕事でも会社の指示に従ってやるだけで、個人で責任を負うことがないのであれば、べつに教養はいらないだろう。教養とはつまり、責任をもって判断しなければならない状況において召喚されるものだといえる。

自分ひとり楽しく生きて行ければいいだけだったら、教養は要らない。感覚に任せて気持ちよさそうな方を選んで生きていればいい。やや余談になるが、私は自己啓発セミナーが嫌いだ。自己啓発セミナーに群がる人達のモチベーションが気に入らない。やれ「悩みを解消したい」「成功したい」「自信満々になりたい」「人をコントロールしたい」といった自己中心的な欲望に突き動かされている人たちばかりだ。そういう人たちにとって勉強=学問=教養などは面倒なだけで効率が悪く見えるから、もっと手っ取り早く結論に飛びつく。そう、教祖様の教えだ。自分の人生を好転させうる教えであれば何でもいいので、他者と共有できなくてもかまわない。だから社会的な共通言語で語る努力を怠り、カルト的な、内輪でしか通用しない語り方になっていく。ここに見られる教養=勉強軽視の態度は、社会を軽視していることを意味する。根本的に自分さえ良ければいいと思っているからそういう態度になる。だから私は自己啓発界隈が大嫌いなのだ。

私が思うに、勉強する意志は社会に対する責任の意識と関係がある。社会に対する責任の意識が強い人ほど、勉強しなければと思う。いわば自分に対する倫理的課題として、勉強することを課すのだ。

自分ひとりのことであれば、いい加減に生きるのも自由だ。しかし他人のことまで責任を引き受けようとした瞬間に、それでは全然通用しなくなる。自分の個人的な経験と勘だけで他人のことまで判断してしまうのは無責任であろう。他者のことまで考える。そのためには勉強するしかない。だから倫理的な人ほど勉強する。責任を感じる人ほど勉強意欲が高い。言い換えれば、優しい人ほど勉強する。そして、人々はそういう人を信用し、集団を率いてほしいと願う。勉強する人が社会から尊敬される理由はこのように説明できる。高校生にもなれば、勉強する理由はこのように納得しておいてもらいたいものだ。


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