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「ゆとり教育」を振り返る

 河合隼雄。90年代後半にいわゆる「ゆとり教育」を主導した人物だ。この人の当時の教育論を読んだ。日本の難点を正確に言い当てていると思った。これほどの人が国の要職に就いて改革を推し進めたのに、「ゆとり教育」はすぐに引きずり降ろされてしまった。今回は私から見える範囲の情報をもとに「ゆとり教育」を総括してみたい。

河合隼雄による日本社会の分析

 河合は日本は母性社会だと言う。これがキーワードだ。個別の家庭を見ても、母親が強く父親の影が薄いと言う。フェミニストはすぐ「家父長制ガー」と言うが、河合に言わせれば日本は風土的に元々母性社会なのであり、家父長制という制度は母性文化を少しでも緩和するためのバランサーの役割を担っていたとされる。現代はその家父長制も崩壊してしまったので、際限のない母性の強化が見られる。それが子どもの精神疾患の背景にしばしば見られるというのだ。河合は母性原理の特徴を表にまとめている。

『臨床教育学入門』p157(河合隼雄)

 たとえば日本の学校が強い平等主義に貫かれているのも母性原理で説明できる。母性原理は個人よりも共同体の均衡を重視する。年齢による序列をつけ、飛び級や落第は好まない。非言語的な同調圧力が強く、外部の人が共同体に入ることを嫌う。これらの性質をすべて「母性原理」と名指すのは性差別的だと思うが、河合も母親=女が悪いと言っているわけではない。むしろ日本の男性たちのマッチョな振る舞いこそしばしば母性原理的だと批判している。男たちは強権的に同調を強いるような指導をするからだ。

 日本の教育者は才能の差異を見ないふりをする。今も昔もそうだ。河合は「易行」という文化的伝統に注目する。易行とは仏教用語で誰にでもできる修行法のことだが、芸能における「型」の習得も易行とされる。誰でも努力さえすれば、茶道や華道、舞踏などの型を身につけることができる。この伝統があるために、勉強も同じように考えられがちなのだという。だから勉強は誰にでもできるはずだ、成績が悪いのは本人の努力が足りないからだという話になる。

 これは教育だけの問題ではなく、日本社会の文化そのものの問題だ。だから河合は「ゆとり教育」を導入する前から、変革していくのは困難だと予見していた。そして実際その通りになった。河合はその後、亡くなる直前まで文化庁長官を務めた。

ゆとり教育はなぜ頓挫したのか

 文部科学省で「ゆとり教育」を主導した寺脇研は講演会などで当時を振り返り語っている。ターニングポイントは、全国一斉学力テストの導入だったという。寺脇は教育をペーパーテストの学力だけで論じるのは危ないと言って大反対したが、マスコミや教育学者らの理解を得られず、客観的なデータを取って公表しろと詰め寄られたそうだ。保守派からも、進歩的な知識人(苅谷剛彦など)からも批判され、仕方なくやることにしたのだそうだ。学力テストの成績が公表され、学校同士の比較もされてしまうようになった。こうしてまた学力偏重に舞い戻ってしまったという。河合が予見していた通りになってしまった。日本の教育の問題は日本社会に根付いた文化の問題なので、変えようとしても引き戻そうとする引力が常に強くはたらく。元々「ゆとり教育」の必要性は社会的に広く共有されている問題意識だったはずだ。詰め込み教育、受験戦争の過熱、いじめ、自殺、少年犯罪。このままではいけないと言われていた。しかしいざ教育改革を遂行してみれば、マスコミも知識人も手のひらを返したように、変化に対する不安を煽りだす。こうして「ゆとり教育」は道半ばで骨抜きにされてしまった。

ゆとり教育で自殺者数は減らなかった

 自殺者数の推移を見ると、「ゆとり教育」の学習指導要領が出された1998年=平成10年に自殺者が急増していることが分かるが、これはバブル崩壊の影響である。しかし、その後自殺者数が高止まりし続けていることが問題だ。児童生徒に絞った詳しいデータを見ても、「ゆとり教育」以降も自殺者数は減らなかったことが分かる。
 なお、「脱ゆとり教育」として授業時間数が再び増加した2011年=平成23年に児童生徒の自殺者数が増え、その後高い水準で安定してしまっていることも分かる。結論としては、「ゆとり教育」には自殺者数を減らす効果があまりなかったが、「脱ゆとり教育」すなわち詰め込み教育への揺り戻しは自殺者数を増やす効果があったといえる。

 このデータを見た感想を述べると、それはそうだろうと思う。「ゆとり教育」の時代も受験戦争は過酷だったし、塾、予備校に通って偏差値ランキングを気にする学校生活だったことに変わりなかったのだから。「ゆとり教育」は人間としてまっとうな道を示していたと思うが、保護者も、経済社会も、現場の教師たちでさえ、その道に適応できなかった。これは大変悲惨な現実だと思う。人間とはこんなにもレベルが低いのかと思わされる。

ゆとり教育の問題点

 ゆとり教育の問題点として第一に挙げられるのは学力低下だが、たしかに文部省は当初、学習指導要領の範囲を超える内容の指導を禁じていたので、それは問題だったと思う。2003年に改め、指導要領は最低水準を示したものだと位置づけし直すことになった。
 その後「ゆとり世代」と呼ばれる若者が就職していくが、それが使えないと言われるようになる。彼ら/彼女らは指示待ち人間であり、怒られるとすぐ辞めるなどと言われ、まるでゆとり教育が悪かったかのように揶揄された。何につけてもゆとり教育が悪玉にされてしまうので気の毒になるが、怒られるとすぐ辞めるのはその後ずっと続く現象であり、現代的な精神性として説明すべきだろう。要するに現代の人たちはハラスメントを許容しなくなったということだ。ゆとり教育の問題などではない。しかし指示待ち人間が増えたと言われると耳が痛い。ゆとり教育はそれこそ主体的に考えて学習できる人を育てようというプロジェクトだったからだ。研究によると、「総合的な学習の時間」について、小学校で約7割、中学校で約9割の教員が“今までとは違う力がついているとは思わない”と答えていた。教師教育が行き届いていなかったのがまずかった。これらをデータをもとに苅谷剛彦らから批判されることになったわけだが、しかし長期的に見れば、今も総合的な学習の時間は存在するし、教師たちにも20年ほどの経験の蓄積ができている。私が生徒たちから話を聞くところではそれなりに面白い試みをしているようだし、普段の教科学習とは異なる切り口を生徒たちも楽しんでいるように見える。たしかに当初は現場の準備を待たずにトップダウンで変革を強制したために混乱したけれども、日本社会はトップダウンでしか変わりにくい文化でもあるし、方向性としては共感している教育者は今も昔も多くいる。「ゆとり教育」がすべて失敗として葬られてしまったわけでは全然ない。直近の2020年の学習指導要領でも、大々的に「生きる力」を謳っている。アクティブ・ラーニングなどが目玉とされるが、河合隼雄や寺脇研らの方向性を引き継いでいるように見える。(もっとも、英語の早期必修化など、産業界の要請に従う形であまり賢いとは思えない要素も盛り込まれてはいるが。)

教育は良くなっている

 学校というところは、驚くほど昔ながらのやり方を踏襲している。しかし確実に良い方向には進んでいると思う。今や学生鞄を持って歩く学生はいなくなり、皆リュックを背負っている。男子生徒も「さん」付けで呼ばれる。体罰をすれば告発され大炎上する。学校教師の環境の悪さを訴えるツイッターアカウントがたくさんあり、共感が集まっている。自由進度学習の試みなど、先進的な取り組みが広くシェアされるようにもなった。全体としては「ゆとり教育」が目指した方向に近づいているのではないかと思う。
 最大の課題は教師の人材確保だと思う。フィンランドでは教師資格を得るには大学院を出る必要があり、教師の教養水準が高い。それに比べて日本では人出不足を補うために無資格の教員を使おうと言い出している。かつて明治期の日本は、学校の先生といえば本格的なインテリの職業だった。フィンランドでは今も教師は敬愛されており、「国民のロウソク」などと呼ばれるのだそうだ。日本も教師に対するリスペクトを回復させる必要があるだろう。子どもたちに敬愛されるような人物が教師になるべきだし、それを制度的にバックアップするのが国の役割だろう。教師の待遇改善は必ずしなければならないし、さすがに改善されていくだろう。いま「特給法」が政治イシューにもなっているように。

 以上、ゆとり教育を振り返ってみた。ゆとり教育は世間で揶揄的に言われているほどにはひどいものではなかったし、その精神は今もしっかり息づいていることが確認できた。私は全体として教育に関する議論はまともな方向に向かっているのではないかという印象を持った。


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