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存在論的デザインのための考古学

このNoteは大学の課題で書いたレポートをせっかくなので公開しようという試みです。内容と語尾は少し柔らかくしてnote風に書き換えています。もっとわかりよい文章にしたかったのですが力不足でレポート的な書き口が消化しきれてないですが悪しからず。

昨年冬にオンラインで開催されたTama design universityでの久保田晃弘先生の講義にて提唱されていた可逆デザインという概念があります。これはデザインという行為にUndo(戻れる)機能を付与することで過去ー現在ー未来のデザインを可逆的な運動として位置付けようとするものです。

このレポートでは、フーコーの「知の考古学」を読み、可逆デザインと存在論的デザインを結び付けながら、存在論的デザインの実践に向けたデザイン考古学の可能性について考えます。


フーコーの考古学とエピステーメーについて

まず、本書にてフーコーが示す考古学とエピステーメーについて整理します。

フーコーの考古学とはいわゆる地層に埋まった文化的遺産を探索する行為ではなく、知にまつわる歴史を探る作業のことです。例えば博物学における植物分類や、中世以降の西洋思想史について研究する際、本書以前ではテキストに対して研究者本人や学派、同時代の研究者グループとの関係性などから位置付けが行われてきました。しかしフーコーは分析するテキストに対して言葉として表されたもの、つまり言表を言表のまま取り扱う必要性を指摘します。その背景には言説や歴史が解釈され寓意的になることで起こる誤った歴史観への批判があります。例えばニーチェの系譜学に対して、マルクスによる生産関係や階級闘争をめぐる歴史分析を対置し近代的知の構築が人間を巡る普遍的事実や世界観の構築に腐心してきたことを指摘しています。(Kindle版 26/387 ページ)知の歴史を一つの中心に向かうための物語に還元してしまうことは進歩主義的な世界観を生み出しかねません。知の考古学は「よりよく隠された『別の言説』を探したりはせず、(Kindle版 234/387 ページ)」むしろこの作業において中心となるのは「言説の諸様態の差異をめぐる分析(Kindle版 235/387 ページ)」となります。

そのため、考古学においてはフーコーが図書館のメタファーを用いて説明するアルシーブ(以下アーカイブ)が重要な概念となります。アーカイブとは「言説実践の厚みの中に言表の数を出来事および事物として設定する諸々のシステムのすべて(一方では出来事であり他方では事物であるようなものとしての言表のシステムのすべて)」を指すものです(Kindle版 220/387 ページ)。アーカイブには言表されてきたこれまでの知が蓄積されています。しかし例えば地動説以前に地球の自転に基づいた発明はアーカイブされ難いように、ある時点においてアーカイブ化されるのは特定の時代における知の枠組みと結びつきます。つまりアーカイブは特定の時代を跨いだ言説の差異を明らかにするデータの集合体であり、また言説の外側にあるエピステーメーを表象するもの材料でもあります。このアーカイブの性質はデザイン考古学を検討する上で重要な特徴となるのではないでしょうか。しかし、本書にてフーコーはあくまで禁欲的に言語(パロールもラングも含めて)が表する領域における議論に終始注目して論を進めています。ここまでストイックに作られた概念をデザインという総合的な領域に適用する前にデザインと考古学の間を補完する概念として、トニーフライらThe Studio at the edge of the worldが盛んに議論している「存在論的デザイン(Ontological designing)」について整理する作業が必要です。


存在論的デザインと「人間」になること

存在論的デザインはテリー・ウィノグラード, フェルナンド・フローレス&平賀 譲「コンピュータと認知を理解する: 人工知能の限界と新しい設計理念」において提起された概念であり、そこでは主にハイデガーの道具論やそれに影響を受けたコンピューター科学を基点に説明がなされています。しかしウィノグラードらの議論はあくまで認知科学やコンピューターの議論に注目したものであり、ポストヒューマニズムの議論や、フーコーが取り上げていた人間や知を巡る議論とは少々距離があるため、本稿では近年の気候危機やデジタルテクノロジーの問題をより重要視するトニーフライ(Tony Fry)らの議論、特に二つの文献から整理したいと思います。まず存在論的デザインの外郭を説明するものとしてフライと共同研究を多くするアン・マリー・ウィリス(Anne-marie willis)の「Ontological designing」という論文を見ていきます。

本論文はウィノグラードらと同様ハイデガーの道具論および現象学に立脚して存在論的デザインの外郭を示すものです。彼女のテーゼをまとめるならば、「我々は世界をデザインし、世界は我々をデザインしている(We design the world, the world design us)」ということです。例えば、ある工作機械を用いて道具を作る人がいたとき、作られる道具は工作機械と人間の相互作用から生まれています。当然ですが工作機械の扱いに習熟した人であるほど制作物の精度は高くなり、そうでなければ精度は下がります。しかしその際に問題となるのは習熟度のみではありません、むしろ工作機械が持つ素材や機能の性質や、つくられるものの形而上的な指示(例えば完成形のイメージやその道具を使う場面への配慮)に人間が影響を受けて道具は生成されています。つまり自分達がデザインした道具によって人間は影響を受けているのです。

ウィリスはこれを「存在論的デザインの循環(Double movement of ontological designing)」と定義しました。これは存在論的デザインの最も理解しやすい例の一つですが、同様の考えを非物質的な組織システムや思考方法にも適用すると、より大きな生活への影響が認識できます。

この影響の具体的な懸念についてはTony fry著「Becoming human by design」にて詳述されています。

本書にてフライは道具の制作がMankindからHumanへの人類の進化を促してきたことを指摘し、道具によって人間は現在の状況を構築してきたと述べます。その結果として西洋中心的合理主義は人類の中心的な思考法を占拠するようになり、現在の気候危機や大量絶滅が招かれたとフライは批判します。

そのような西洋的持続可能性(Sustainability)では依然として周縁化された存在の危機は解決されず、むしろ現在の構造的な持続不可能性(Unsustainability)を強化することになります。フライはこのような西洋的持続可能性の概念に対峙させる形で持続主義(Sustainment)への移行を強く呼びかけています。現在の体制を改良することで危機を脱しようとする持続可能性とは対照的に、持続主義は持続可能であるためには現在の様式の破壊と再創造が必須であり、「我々の存在様式の変化なくして何も変化しない」と強く主張します。持続主義は人間の環境、経済、社会、文化、心理的存在のあらゆる領域が変化し、異なる形で地球に住まう必要性を継承する思想です。

ウィリスの論文に触れて、述べたように存在論的デザインの観点では道具は私たちをデザインし返しており、現在の思考や存在の様式はこれまでのデザインされてきたものたちとの絶え間ない相互作用の結果より生まれたものです。存在論的デザインの研究者たちは、このようなデザインの集積によってデザインされた世界が生まれている状況を(少々ハイデガー的な表現ですが)「世界内世界(world-with-in-world)」という概念で説明します。

デザイン考古学はまさにこのような世界を対象とする試みになるでしょう。つまり道具と人間の相互作用の軌跡である歴史を解体し、そこに隠れる言説および、つくることの枠組みや認識論的差異を分析することによってデザインの進歩主義的特徴を過去、現在、未来の視点から相対化するということです。

以上の整理をもとに、すでにデザイン考古学の有効性を提起している久保田晃弘の「可逆デザイン」について説明し、フーコーの考古学やエピステーメーがどのようにデザイン学の領域において役割を持ちえるかを述べます。


デザイン考古学の素描

久保田先生は「デザインにUndo機能を実装する(ことは可能か?)」という講義の中でデザインのプロセスをアーカイブし常にUndoできる(前の地点に戻れる)状態を保つデザイン行為を可逆デザインと定義しています。デザインプロセスを終わりのない行為として捉えその過程をアーカイブ化することで、ある特定のデザインや道具が必ずしも進歩主義的な認識に基づかずとも成り立つようにすることが可逆デザインの重要な特徴です

例えばスマートフォンのデザインは半導体の小型化と共に形状やインタラクションを変化させてきましたが、機能のアップデートが必ずしも望ましい社会の構築に繋がってきたとは言い切れない部分も多々あります(紛争鉱物からUberの渋滞まで)。可逆デザインはデザインすることを必ずしも歴史の進歩の一環とせず場合によっては形状や機能を前の地点に戻れるようにデザインプロセスのアーカイブを蓄積することを提案するものです。

もう一つの可逆デザインにおいて重要な特徴は戻る地点は必ずしも過去に限らないことです。例えば極端な未来シナリオを描くことで現在に議論を呼び起こすスペキュラティブ・デザインのような実践を考えてみましょう。
スペキュラティブ・デザインでは未来を考えた後バックキャストで現在に立ち返ることで、現在を未来から見た過去として位置付けます。
それにより、現在で行動を起こすことが未来におけるUndoになるのです。

久保田はこれを「予言」と呼び、予言によって未来から現在への介入が可能になると述べます。そのため可逆的デザインが戻る先は必ずしも過去に限定されずむしろ異なる時間軸を全て「現在における表象」として認識した上で過去から現在への介入と、未来から過去への介入を積極的に促すものです。予言は自己破壊/成就することで現在から異なる未来を描くことが可能になります。そのため悲観的なシナリオが描かれた場合でもそれが必ず発生するということではなく、むしろありうる未来を複数化することで現在における選択の確度を高めることに思索の価値を見出しています。

このように可逆デザインが過去と未来のアーカイブと、現在におけるその表象だとすれば、これらを考古学的分析の対象に含めることでデザインのエピステーメーが分析できるのではないでしょうか?。

そしてその分析は存在論的デザインの実践に寄与するはずです。存在論的デザインの循環によって構築された世界内世界を破壊し再創造するためには、そのデザインが生まれた背景にあるエピステーメーやデザイン言説を理解した上で批評する必要があるからです。

考古学の分析はある言表を著者(作者)や学派との結びつきではなく、それが生み出された状況とその周縁にある事象とのネットワークから分析します。その点において、存在論的デザインは道具と人の一対一の関係ではなく世界内世界とのネットワークから生成されるからこそ、デザイン考古学が存在論的デザインの実践として有効だと考えます。

また持続可能性の言説を形作ってきたデザインに対する過去ー現在ー未来の考古学的分析は、フライの主張する持続主義への移行の第一歩となるでしょう。

ただしこれは現在あるデザインのエピステーメーを破棄し更新することを一概に肯定しない点に注意すべきです。久保田先生は可逆デザインのプレゼンテーションの最後でフーコーの「文化とは反復のしかたである」という言葉を引用しています。デザインは世界内世界をつくる行為として差異の生成と反復を繰り返す営みであり、進歩と後退の攻防という歴史観で語られるべきではありません。

そうではなく、過去から未来までの言表としてのつくられたものを特定のエピステーメーから生まれる文化として相対化し、反復のあり方に介入することこそが存在論的デザインであり、そのための分析こそがデザイン考古学なのではないでしょうか。



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