心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その9

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その8
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。

「挨拶に行って欲しい」
 奨励会に入ってからもI将棋クラブに通っていた時、下村先生から言われたことがあった。
「マーちゃん、お父さんかお母さんに話して、一度K先生のお宅に親と一緒に挨拶に行ってほしいんだ」
 これについて、家で二回ほど両親に相談したのだが、父は「どうせ下村君が本当の先生なんだろう。まあいいんじゃないかな」などと言っていて行ってくれそうもなく、母もそれに同調していた。
 あまり強くお願いすると奨励会にいること自体反対されそうなので、結局聞いてみたのは二回だけだった。
 下村先生は、ぼくの親がK先生の家に挨拶に行くということにかなりこだわり、なんども同じことを尋ね、そのたびに、「こないだ話しましたが、まだ返事はもらっていません」くらいのことしか言えなかった。
 それに対して、先生は「ふーん」と言って渋い顔をしていた。
 下村先生は、将棋が強く、アマチュア名人戦で都道府県の代表になったことがあり、また、麻雀が強く競馬にも詳しく、笑い声が大きくて豪快そうな雰囲気だった。くしゃみをする時に「ハハハ、ハクショーーン大魔王」と言ったりする面白い人で、将棋クラブの連合会を立ち上げて将棋クラブの対抗戦を企画するなどやり手でもあった。
 時々「あいつの博打の借金は俺が面倒を見てやった」等の発言をしたりして威張るのが好きなところがあり、古いタイプの将棋クラブの席主という感じの人だった。現在は、将棋クラブの数も減っているし、それ以外でも夫婦だけでできる実店舗型の自営業のような仕事が減っているようなので、ああいうタイプの日本人が減っていると思う。
 もちろんそれは寂しいことなのだけど、あの時の自分にとっては向かない人だったように思う。
 下村先生は、曖昧なこと・どっちつかずのこと・白黒がはっきりしない灰色のことなどが人一倍気になったり不安になったりして、それに耐えるのに苦労する性格のようだった。何事もすぐに白黒つけようとするタイプで、この場合でも、ぼくの親の「本当はどちらかと言えば反対だけど、息子がやりたがっているから仕方がない」という気持ちが嫌なようだった。
 親も子どものやることに全面的に協力してほしいという気持ちが強く、そのためしつこくK先生に挨拶に行くように言っていたようだ。
 一方、親の方は「そんなに積極的に息子を将棋指しにしたいわけでもないのにどうしてわざわざ挨拶しにいかなければいけないんだ」思っていたらしい。
 その頃自分は、足腰の筋肉が硬くなって、体に柔軟性がなくなり、足を伸ばしたまま座って前屈しようとすると膝の裏がしびれて少ししか曲がらないという症状が現れた。
 原因はよくわからなかったが、後で考えてみるとこうした「大人たちが自分のことをめぐって綱引きをやっているような環境が非常にうっとうしく、それがその頃の自分の心に悪い影響を与え、それが足腰の筋肉の緊張を引き起こして体の柔軟性を奪った」という見方が最有力だと思う。いい例えかどうかわからないが、両方から引っ張られて綱引きの綱がちぎれそうになって悲鳴を上げているような状態だったように思う。もちろんこれは、医師による医学的な診断による結論というわけではない。でも、こういった症状の本当の原因というのは医師でもなかなかわからず、「心因性」という名前をつけてそれ以上深く追求しないことが多いらしい。
 この場合、だれかが柔軟な人だとまた違っていたかもしれない。
 父か母のどちらかが柔軟な人で「息子が将棋指しになるということに関しては、本当は賛成ではないのだけど、子どもをめぐって大人が緊張関係を続けていると子どもの心身に悪影響が及ぶので、あんまり気が進まないが一回くらいだったら将棋の先生のところに挨拶に行ってやるか」と考える。
 あるいは、下村先生の方で「本来ならば親が全面的に子どもに協力して、入門したのだからには親が師匠のところに挨拶に行くのが筋だが、この場合今すぐは難しいみたいだ。まあ、積極的に反対しないだけでもよしとしよう。長い目で考えるしかなさそうだ」と判断する。
 どちらかが、こうしたややいい加減とも言えるが柔軟な見方をしてくれると助かったのにな。と思う。
 両親も下村先生もいろいろな意見の人がいるという状況の中で柔軟に考えてうまく子どもの考え方を生かした方向に持って行こう。ということが苦手なようだった。どうも3人ともかなり自分の視点だけを中心に物事を見ていて、不安定で灰色なことが苦手な人だったようだ。
 下村先生の奥さんはやや柔軟な人だったようだが、このことに関する自分と親とのあり方について質問したり意見を言ったりすることはなく、相変わらず夫のすることに口を出さず黙って従っているようだった。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その10

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