心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その25

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
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 新宿天狗クラブ
 次の日、予備校の授業が終わると、早速島村さんに教えてもらった新宿天狗クラブに行くことにした。
 当時の新宿歌舞伎町には、現在新宿東宝ビルがある場所にコマ劇場があり、大きな美空ひばりの看板がかかっていた。教わった道は、その脇を通ってコマ劇場のあるビルの裏に回り、歌舞伎町交番の2階にあるということだった。
 カンタベリーハウスギリシャ館などのディスコや映画の看板などがあるのを横に見ながら、コマ劇場の裏側に回ってみると、確かに歌舞伎町交番のあるビルの2階に「新宿天狗クラブ」の看板があった。
 2階に上がろうと歌舞伎町交番の中に入り階段を上がろうとすると「おいおい、どこに行くんだ」とお巡りさんから呼び止められ、「将棋クラブ」と答えると「たまにそういうかん違いをする人がいるんだよな」と言われ、「このちょっと先にあるエレベーターで2階に上がりなさい」と教えてくれた。
 新宿天狗クラブは、畳敷きの部屋に将棋盤が30面くらい置いてあり、もちろん新宿将棋センターに比べれば全然小さいがそれなりの規模の将棋クラブだった。
 言われた通りで、新宿天狗クラブでは、月に1回程度もっと賞金の額が多い大会があるのだが、その日以外は毎日賞金五千円トーナメントをやっていた。
 参加人数は、原則として2時くらいまでに来たお客さんの人数だが、32人に達すると2時前でも締め切ってしまう。その時の参加者は、たぶん20人から30人の間だった。トーナメント戦で、早く来た人は4連勝、遅く来た人は5連勝で優勝というシステムだ。
 ビギナーズラックと言う言葉が当てはまるのだろうか。その時は、運よく4連勝してその日の優勝者になった。
 席主らしき人は、大柄・肥満体で脂ぎった顔をしていて、やたら「がはははは」と、豪傑じみた高笑いと言ったらいいのだろうか、豪快な感じにも聞こえるがけっこうわざとらしい笑い声を出す中年の男だった。I将棋クラブの村山さんとタイプが似ているが、村山さんの顔や体をうんと大きくしたような感じの人で、古沢さんという名前だった。後で聞いた話だと本業は不動産屋をしているということだった。
 古沢さんは、「けっこう強いね」といいながら5千円が入った封筒を渡してくれた。
 それを持って、律儀に藤代将棋クラブに優勝したことを報告しにいった。
 島村さんに優勝したことを告げると、案の定2千円を出すように言われた。
 まあ、確かに島村さんに教えてもらわなければ5千円はもらえなかったので、島村さんに2千円を渡すと、島村さんはニヤリと笑い2千円をポケットに入れた。
 次の日はもう予備校の夏期講習は終わっていたが、新宿天狗クラブに行くために、電車に乗って新宿に行った。
 その日もまた優勝して5千円をもらい、それを持って律儀に島村さんに報告しにいった。
 島村さんがまた2千円よこすように言うので、封筒を後ろに隠すようなポーズをすると笑って許してくれた。
 その後の夏休み中や、2学期になってからの日曜日に新宿天狗クラブに行った。が、5千円トーナメントではなかなか優勝できなかった。自分は奨励会を5級で辞めてからほとんど将棋は指していない状態だったが、アマチュア強豪の中にはプロ4段以上の棋士を負かすような人もいたのだから、当然と言えば当然のことである。
 最初の2回はたまたま強い人に当たらなかっただけで、新宿天狗クラブには、新宿の殺し屋という異名をとっていた小池さんという人を筆頭にアマチュア強豪が集まっていた。
 小池さんは、後にアマチュア名人戦で2年連続全国優勝したり、アマプロ戦でプロを負かしたりして有名人になる。当時はまだそれほど有名ではなかったが、天狗クラブの賞金トーナメントでは毎日のように優勝していた。振り飛車党で、四間飛車か中飛車に振り、美濃囲いか穴熊に囲う場合が多く、序盤はあんまり工夫していなくてけっこう不利になることが多いのだが、不利になってもその後力を発揮する実戦で鍛えた将棋だった。
 それは、悪力と言ったらいいのだろうか、自分にとってはどこがどう強いのかさっぱり理解できない、「非合理的な」と言ってもいいような強さを持つ将棋だった。
 横にも縦にも大きい体つきで、眼光が鋭く声にも迫力があり、他人に何か尋常ではない人格的圧迫感を与えるタイプだったが、毎日の賞金トーナメントの優勝者の名前が書いてある前に立ち、小池という名前がいっぱい書いてあるのを指さして、「この小池という人は強いねえ」と自分で言いながらニヤニヤと愛嬌のある笑顔を見せるような一面があり、道場のみんなから好かれていた。
 小池さんが真剣に将棋を指しているところを見ると、父がスコップを持って隣の家の屋根の上にのってズデンズデンという音をさせてスコップを屋根に打ちつけている姿を思い出した。二人とも、試験管の中に入れて大切にしている小さく脆い自分の魂を必死になって護っていたではないだろうか。
 父と小池さんでは、年代も世代も学歴も仕事も家庭も体格も何一つ同じところはなかった。例えば、父は東大法学部を出た通産官僚だったが、小池さんは高校中退で職を転々としていたし、父は小柄だったが小池さんは巨漢だった。でも、会った時に感じる空気のようなものが似ていて、二人とも繊細で傷つきやすい大酒飲みで、心に問題を抱えていそうな雰囲気があった。
 後に「寸借詐欺を繰り返して借金が500万円」という趣旨の小池さんに関する新聞記事が全国紙に出てしまうのだが、確かにああいう愛嬌のある人だったので、被害者たちは頼まれるとお金を貸したくなったのだろう。暗くて愛嬌のない人だったら寸借詐欺などはできない。ああいう人あたりがいい愛嬌のあるところを、寸借詐欺ではなくもっと別の方向に生かせばよかったのになあ。と思う人は多かった。
 自分は、賞金トーナメントで最初に2回連続優勝した後なかなか勝てなくなったが、強い人と指せて楽しかった。
 映画館でじっと映画を観ているのも、感動したり笑ったり泣いたりそれはそれでいい体験なのだが、将棋の方が自分が決断したことの結果がすぐにわかるところがいい。ということをしみじみ感じ、映画から将棋に頭が切り替わった。
 「やっぱり将棋はいいものだなあ」と思い、学校が休みの日はほとんど新宿天狗クラブに通い詰めた。金額が正確かどうか自信がないが、月に1回優勝賞金5万円くらいの賞金大会が開かれていて、その日は特にアマチュア強豪がおおぜい集まった。後に週刊将棋編集長や囲碁将棋チャンネルのキャスターになる古作君が、まだ中学生なのにその賞金大会に来ていてかなり上位に残ったりしていた。

 天狗クラブでも、Kさんというアマチュア強豪から「勉強がそんなに好きでもなければ、将棋で生きていく方がいいんじゃないかな」という言い方で、奨励会入りを薦められた。わりあい、いろいろなプロ棋士を見てきた考察に基づいて言っているような口ぶりで、信頼できそうに思えた。
 Kさんは革ジャンに黒メガネをかけたラフなスタイルのおじさんで、40歳くらいに見えた。
 奨励会を薦められたのは、2~3か月の間に、新宿将棋センターの金田さんに続いて2回目だったので、意外と自分は将棋のプロを目指せば有望なのかもしれないと思った。将棋は、中学3年から高校2年の1学期にかけて2年以上のブランクがあったので、その時期に、親の反対をうまくかわして奨励会を続けていく方法を見つけるか、または、奨励会にいなくても将棋が強くなる方法を見つけて実践していたらよかったと思ったが、今からでも遅くないような気がした。
 帰りの電車の中でも、それについて考えていた。父は自分が奨励会をやめる時、自分の将棋の棋力について「ふーぬぼれんな、ふーぬぼれんな」と言ってひたすら否定的なことを言っていたが、あんまり将棋界の様子・事情とか自分の実力を知らないで言っていたような気がする。
 やはり自分は、今からでもプロ棋士を目指した方がいいんじゃないかと思い、母に相談してみることにした。
 家に帰って母と相談すると、それほど不機嫌になるわけでもなく、真面目に話を聞いてくれた。そして、「お父さんと相談してみる」と言った。
 その後、父と相談してくれたようだったが、答えとしては、父の反対が強く難しいだろう、ということだった。 
 天狗クラブは、マチュア強豪があつまる将棋クラブとして栄えているように見えたのだが、半年くらいして閉鎖されてしまった。
 賞金目当てにやってくるアマチュア強豪ばかりを相手にしていても、採算が取れなかったのだろう。

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