心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その46

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その45

 予備校講師2年目
 1992年。この年は、バブル経済崩壊後まもない時期で、まだまだ子どもの教育に相当なお金をかける人は多かったし、18歳人口がピークに達して約200万人になり、浪人生文化が栄え、代々木ゼミナールをはじめとする大手予備校が大いに儲けていた。
 自分自身は、この年、人生で一番授業をたくさんやった年になったのと、移動時間が一番長かった年でもあった。
 週1回の静岡学園予備校の授業には、新横浜に出て、そこから新幹線と在来線で沼津まで通い、週2回の江戸川取手の授業には、東横線と地下鉄と常磐線を使って2時間以上かけて通い、京華中学だけは都内にあったが、それでも通勤に1時間くらいかかった。
 江戸川取手では高校2年を教えた。校長が平成10年東大100名という目標を掲げていたが、教員たちは「できっこないよ」と考えている様子だった。生徒たちは素直で教えやすかったし、東大に受かるような資質があるかどうかは別にして、それなりに理解力のある子たちだった。集団授業で英語を教えるのは初めてだったが、なんとなくもっともらしいことを教えてなんとか乗り切った。
 京華中学では中学2年生を教えた。こちらは、とにかく授業中の私語が多く、苦労しながら教えていたが、純粋で楽しい子が多かった。
 学校・予備校以外に家庭教師を週2回が1軒と週1回が2軒できることになった。3軒とも派遣業者の紹介によるものである。
 週1回の方は、1軒は大学受験の英語で、時給約8000円・1回2時間とかなり高額で、生徒は高3の男子だった。とても素直な子どもで、お父さんがお肉屋さんで、自分で経営しているか雇われ店長をしているようだった。それほど苦労しないでもうまく指導でき、5月頃から1月まで約9カ月間仕事が継続し、成績が上がりちゃんと大学に受かった。
 これは、今までで1番経済的な条件がよくてうまくいった仕事である。時代がよかったのだと思う。今こんなことをやろうとしてもたぶん無理だ。
 もう1軒は、小学校5年生男子で塾の授業の補習だった。塾でやったことを問題を解きながら何度も確認するという内容で、予習しないでも教えられ、時給4000円もらえた。「君はどんな少年だ」「天才的な少年!」「うーんそれは謙虚さが足りない」なんていう変な漫才のようなやりとりを繰り返しながら教えていた。恵まれた家庭でのびのび育った子、という印象だった。
 週2回の方は、中学受験の算数を教えた。
 お父さんはナイトクラブを経営している元芸能人だった。
こちらも真面目な生徒で、やはり9カ月くらい指導して志望校に合格させることができた。
 予備校講師、学校の講師、家庭教師すべて合わせると週30時間くらい教えていてかなりきつかったが、充実していたし、うまくいくことが多かった。その反面、教員採用試験は忙し過ぎて受ける気になれず、受けなかった。
 この年は、年収650万円くらいだった。フリーターみたいな生活をしてそれだけ稼げたのだから、けっこう異常な時代だったのだと思う。自分自身に関しても、中学・高校と親の学歴至上主義的な考え方に悩まされていたが、どういうわけか逆にそういう考え方を利用して金儲けをする側になり、不思議な感じがした。
 「将棋くん」も「元奨くん」もどこにいったかわからない状態だった。いなくなったわけではなく、お休みしていたのだと思う。将棋のことはほとんど忘れて過ごしていた。

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