心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その7

※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その6
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。

 「将棋くん」再始動
 2月初旬に行われた中学受験では、私立T中学に合格し、2月の半ばからI将棋クラブ通いを再開した。
自分が中学受験でI将棋クラブに行かなくなってから、笠松君・田山君も断続的にしか行っていなかったようで二人ともまだ5級だった。3人そろわないと行っても面白くなかったのかもしれない。
 自分が行き始めると1か月に1級くらいずつ級が上がっていき、笠松君や田山君は中学に入るとI将棋センターには来なくなったが、自分は私立中学に入ってからも通い続け、 4月には2級、5月には1級になった。
 それと、前に述べた『近代将棋』という雑誌も親からもらったお小遣いを使ってほぼ毎号買うようになった。その年の5月号か6月号だったと思う。今でも覚えているのだが本屋で見つけた時、その号は緑色の表紙でいつもよりも少し厚めで、表紙の下の方に「どうすれば強くなれるか」という1文が書いてあった。立ち読みしてみるとその文言通り、将棋上達法の特集記事が出ていて、早速買って家に帰り読んでみた。たぶん何人かのプロ棋士とアマ強豪が薦める上達法が出ていたと思う。人によって重視することが異なり、「将棋が強くなる」ということでも人によっていろいろな考え方ができるんだなと思い、方法論に対する意識が高まった。
 その頃、どうしてあんなにI将棋クラブに通い続け、そして毎月のように『近代将棋』を買い続けたのだろうか。今考えてみて完全に理由が解明できるわけでもないのだが、一応の理由らしきものはある。中学の同級生はどうも小学校の頃に比べてなじめなかったところがあり、「足が短い」「短足」とか「顔が変」「気持ち悪い」などとからかう人たちがいて、軽いいじめのようなこともあった。当時の私立T中学及びT高校は、進学実績を上げることに異常に力を入れていて、教師からは「勉強しろ、勉強しろ」と言われることが多く、どうも公立小学校に比べるとなじめない自閉的な雰囲気があった。また、自宅も相変わらず両親ともに難しい暗い顔をしていることが多く、時々夫婦で口喧嘩のようなことがあったりして、雰囲気が悪かった。母は「うちのお父さんは人間関係が駄目だから出世しない」みたいなことばかり自分たち子どもに言うので、どうも気が滅入ることが多かった。自分に対しては「勉強しなさい」と言うばかりでどうも勉強のどこが面白いのか、どうやって勉強するといいのか教えてくれる面が弱かった。それもあって、I将棋センターに通うことが続いていたのだと思う。I将棋センターは、わりあいみんな和気あいあいと冗談を言いながら将棋を指している雰囲気で楽しかった。
 自分が頻繁に行くことができる場所の中ではI将棋クラブが一番自分に合った居場所だった。おばあさんの家もいい居場所だったが、そこはそんなに頻繁に行くわけにもいかなかった。将棋自体が面白いということ以外に、I将棋クラブという場所が自分にとって必要だったのである。
 自分の父親はその頃、中央公務員だった。いつも難しい顔をして仕事のことで悩んでいる様子で、夕食の時などには「あいつはバカなのに要領ばかりよくて出世する。怪しからん」みたいな仕事の愚痴のようなことばかり言っていて、こちらの気が滅入ることが多かった。
 一方、I将棋クラブは、商店街の面白いおっさんのような人がたくさん来ていて、家や学校にいるよりも楽しかった。相対的に見ると、家やT中学が自閉的な世界で、I将棋クラブは開かれた世界だった。
 それと、自分の母は勉強のことばかり言う真面目な性格でどうも苦手だったが、下村先生の奥さんは丸顔でいつもニコニコしている明るい性格で、よく「マーちゃん(自分の本名が中井正則なので、マーちゃんという略称で呼ばれるようになっていた)は強くなったわね」と言って下さりとても励みになっていた。
 こうしてみると、どうも自分の両親の方が損な役回りだが、もちろん両親も下村さん夫婦もI将棋クラブのお客さんもみんな自分が成長していく上で必要な人だったと思う。朝顔が咲くためには、夜の闇と朝の光と両方必要なのと似ているのだろうか。と、こういう例えを使うと両親が闇の人だと書いているようで具合が悪いだろうか。光と闇に上下関係があるわけではないのだが。縦の人間関係よりも斜めの人間関係の方がある意味面白みがあり、そのため注目されやすい面もある。でも、もちろん両方必要だと思う。
 6月・7月と足踏みしたが、夏休み中は週に5~6日くらい通い続け、8月には初段になった。
 その後も、土日や長期休暇の時にはI将棋クラブに通い続け、中1の冬休みには2段、中1から中2にかけての春休みには3段になった。
 この頃、下村先生から近所の喫茶店に誘われ、時々I将棋クラブで姿をみかけたK先生という若手棋士が自分のことを将来有望だと言っていて、その人の弟子として奨励会の入会を受けないかと言われた。
 そして『中原誠 名人への棋譜』という中原名人(当時)のことが書いてある本を貸してくれて、この本も参考にし、親とも相談して奨励会を受験するかどうか決めるように薦めてくれた。
 自分は奨励会がどういうところなのかあまりよく知らなかったが、将棋自体面白かったし、将棋雑誌などを通してプロ棋士にあこがれる気持ちもあったので奨励会の入会試験を受けることにした。
 その時は、両親の反対はなかった。
 後の経過を考えるとどうしてこの時反対しなかったのか少し不思議だが、あまり深く考えていなかったらしい。「奨励会に入っても学校の勉強と両立できればいいんじゃないか」「本人がやりたいんだからとりあえずやらせてみよう、どうせあんまり勝てないですぐに辞めたくなるだろう」という感じだったようだ。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その8

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?