もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第5話 優先すべきは価値観である(その2)

 10年くらい前に流行った『もしドラ』を意識して書いた小説です。
 自分がよく行くスナックで行われていることを脚色して書きました。
 『もしドラ』と違って、テーマごとに違う話が展開する短編連作です。

※ 第1話から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第1話 仕事の仕方と学び方から読むことをおすすめします。
※ ひとつ前の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第5話 優先すべきは価値観である

 第5話 優先すべきは価値観である(その2)
 十五町さんが来たのは、10時ごろだった。
 その時間には十五町さんのことをよく知っている常連のメンバーが4人ほどいたので、十五町さんを含めて5人にはボックス席に座ってもらった。
 大き目のケーキにろうそくを10本ほど立ててテーブルに置き、ろうそくに火をつける。
 カラオケでハッピー・バースデイの音楽が流れ、ルカとリナとアヤメの3人がそれぞれ手にマイクを持って歌い始めた。

 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー
 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー
 ハッピーバースデイ・ディア十五町さん
 ハッピーバースデイ・トゥー・ユー

 「十五町さん」というところが少し字余りだったが、きれいにハモルことができた。
 十五町さんがローソクの火を吹き消すと、みんなで拍手した。
「ところで、フィフティーンさんは何歳になった?」
 沢田さんが尋ねた。この店で十五町さんはフィフティーンさんと呼ばれている。
「うーん、実はもう35歳なんですよ」
「35歳じゃあ、まだ若い」
「そうかなー。でももう転職もできにくい年になってきたし、たまにこれでよかったのかなーなんて思うけど、そのたびにたぶんこれでよかったんだなと思う」
「いやー、でも区役所なんて堅実でいいじゃないですか」
「それもそうなんですけどね。確かに満足して働いてます」
「ちなみに、フィフティーンさんの学生時代の友だちなんてみんなどんな仕事をしてます?」
「それがいろいろなんでびっくりする。昔は東大法学部って言うと、中央官庁が圧倒的に多くて、それ以外だと金融・商社という感じだったんだけど、今は多種多様だね。ぼくみたいな地方公務員もいれば、ロースクールに入る人もいる。ロースクールに行っても、司法試験に受かった後、いきなり弁護士になる人が結構いる。昔は裁判官や検事になる人が多くて最初から弁護士になる人は少なかった。それとコンサルタント会社とか外資系の金融機関なんかも、今は増えている」
「そうかー。でも、地方公務員って、東大法学部にしてはわりあい地味な方じゃないですか?」
「わりあい、じゃなくて一番地味だよ。これ以上地味なとこに行く人はいないんじゃないかな。まあ、作家を目指してニートかフリーターになる人はいるけど、ちゃんと就職する人の中では一番底辺だと思う。僕の場合は、あんまり他の仕事ができるような気がしなかったんだ。中央官庁に行って政治家たちと丁々発止やるのは自信がないし、弁護士だって弁舌は必要だし、外資系は語学力に自信がないし。銀行の調査部とかシンクタンクなんかでちゃんとした論文やレポートを書くのも自信がないし。まあ、ペーパーテストだけは妙にできるんで、地方公務員だったら、公務員試験に受かりさえすれば、凡人でもなんとかなると思ったんだ」
 それを聞いてマスターは複雑な気持ちになった。こんなに、自分の能力が低いということをテキパキと要領よく説明できる人も珍しい。
 この人は、強みではなく弱みがうまく把握できている、ということのだろうか?強みの「ペーパーテストができる」というのは明らかだけど、弱みがうまく把握できることによって、自分の能力ではやっていけないところにいかないで済んでいるのだろうか?
 表面的に見れば確かにそうだが、どうもあんまり釈然としない。ドラッガーがこの話を聞いたらどう思うだろうか?
 マスターはドラッガーの言葉をいくつか思い出した。

 誰でも、自らの強みについてはよくわかっていると思っている。だが、たいていは間違っている。

 「ペーパーテストに強い」というのは確かに間違っていないが、把握の仕方はかなりアバウトだ。
 東大法学部の学生は、すごく頭がいいか、すごく要領がいいかのどちらかだという話を聞いたことがあるが、十五町さんの場合はどっちなのだろうか?

 わかっているのはせいぜい弱みである。それさえ間違っていることが多い。

 東大法学部を出ている人が自分のことを凡人と考えるというのは、学歴にとらわれない立派な自己把握なのだろうか?それとも、まだ本当の自分の強みに気がついていないだろうか?
 十五町さんは、あれもできない、これもできないといろいろ言っていた。本当にあんなふうにいろいろなことがすべてできないとも思えないが、本人は大まじめで話していた。
なんだかもったいない話のような気がする。

 つまるところ、優先すべきは価値観である。

 強みよりも価値観を重視して考えた方がいいのだろうか?
 十五町さんを見ていると、満足して仕事に打ち込んでいる様子なので、価値観にあった生き方をしているということは言えるのかもしれない。
 十五町さんはデンモクを手に取りながら言った。
「ところで、今日は誕生日なので。AKCの歌じゃなくて、特別にキチガイの歌を歌ってもいいかな?」
「まあ、誕生日なんだから特別に許す」
「よし、ルカちゃんの許しが出た」
 十五町さん入れたのは、大昔のジャニーズのアイドルグループ「フォーリーブス」の『地球は一つ』という歌。
 軽快なイントロが流れ、十五町さんは歌い出した。

 キチガイになれば
 キチガイに戻る
 キチガイになれば
 キチガイに戻るよ
 まあるいキチガイはみんなのものさ
 みんなのキチガイはみんなのものなのさー

 当然、もはやこの店の名物ともいえる、エリコの激しいリアクションが始まる。
「ウワッハッハッハ、ウッシッシッシ。なんで…、なんでキチガイになってからまたキチガイに戻るのか?すごい変だけど面白い。ウッキョッキョッキョッキョ。イッシッシッシッシ。なんでなのか?なんでキチガイがみんなのもんでマルイのか?面白いいいいいー。イッヒッヒッヒッヒ。おなかが痛いいいいー。クルジイー。ムハハハハーーーーーー」
 歌い終わるとエリコは激しく手をたたいた。他の女の子たちも手をたたいたが、そのたたき方は、「仕事なので仕方ない」という感じのやる気のなさそうなたたき方だった。
 他のお客さんで手をたたく者は一人もいなかった。が、十五町さんはなぜか満足げである。エリコのリアクションに満足しているのだろうか?
 この歌を聞いてマスターは考えた。やはり十五町さんは十五町さんなりの相当強情なこだわりにもとづいて現在のような職業を選んだのではないか?他人の心の中はわからないが、十五町さんの場合、「自分は出世したくない」という確固たる価値観が心の中にあるような感じがする。
 やはり価値観を優先することは大切なのだろう。価値観という言葉は少し硬い表現なので、「こだわり」と言ってもいいかもしれない。
 この店に来る人で、「仕事も順調に出世していて家庭も円満でうまくいっている」という人はほとんどいない。でも、自分の価値観を大切にしている人は多いと思う。
 マスターはそんなことを考えながらタバコ吸い、十五町さんがおいしそうにケーキを食べている様子を眺めていた。

※ 次の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第6話 つまるところ、優先すべきは価値観である

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