見出し画像

伊吹亜門×羽生飛鳥×戸田義長 交換日記「歴史本格ミステリ探訪」第5回:羽生飛鳥(その2)

東京創元社出身の時代ミステリ作家3名による交換日記(リレーエッセイ)です。毎月1回、月末に更新されます。第5回は2024年7月31日に公開されたものです。【編集部】



7月 羽生飛鳥(その2)

拝啓、伊吹亜門先生。
先月の日記にて、拙作『歌人探偵定家』ばかりか、別名義で書いている児童書の感想も下さり、ありがとうございます。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

さて、戸田義長先生、伊吹先生と、作品の舞台にまつわる話題をされているので、便乗することにした。
私は、十二世紀の京都を舞台にした物語を書くことが多い。
だが、重度の乗り物酔いと方向音痴の神奈川県民のため、京都へは中学生の頃に家族旅行と修学旅行の二回しか行ったことがない。
では、いかにして物語の舞台を調べたかと言えば、ひとえに資料に拠るところが大きい。
例えば、第十五回ミステリーズ!新人賞受賞作屍実盛かばねさねもりを執筆した際に頼みの綱としたのが、新創社編『京都時代MAP 平安京編』(光村推古書院)だ。現代と平安時代の京都の地図を重ねて見ることができるので、平安時代のあの場所が、現代ではこの場所なのかと、地理を把握しやすい。
作中の舞台となる八条はちじょう室町むろまち邸跡地が、現在は京都駅の一部になっているとわかったのもそのおかげだ。次に、京都の観光ガイドを参考に、もう一つの舞台である六波羅ろくはら池殿いけどの跡までの距離と時間を調べた。これにより、メイントリックが可能かどうかを確認でき、無事に完成に漕ぎつけた。
他にも、資料を読んで十二世紀の京都には九重塔(高さ約八十一メートル!)があったと知り、『歌人探偵定家』で都の風景描写に追加した。

このように、京都は資料が豊富にあるので風景を書く上では易しい方だ。
だが、歴史上わずか半年しか存在しなかった都・福原京ふくはらきょうを舞台にした揺籃ようらんの都』の風景描写をする時は、難しかった。 
何しろ資料が少ない。しかも、都落ちした平家一門が立ち寄って焼き払ってしまったので、建築物が一切現存していない。かろうじて『方丈記』に福原京の描写があるくらいだ。
この時は、歴史資料ネットワーク(史料ネット)編『平家と福原京の時代』(岩田書院)がおおいに助けとなった。福原京の発掘や福原京に関する史料が紹介されていたからだ。
京都や福原とは反対に、鎌倉は日帰りで取材に出かけられる貴重な場所だ。
拙作『蝶として死す』所収のとむらい千手せんじゅは鎌倉を舞台にしている唯一の作品だが、この時は風の匂いや海の色、それに土の泥濘ぬかるみ具合など、いつになく現実味を持たせて風景描写ができたので満足している。

……と、鎌倉について書くうちに、古い記憶が呼び起こされてきた。
大学生の頃、私は北鎌倉の建長寺けんちょうじ周辺の店で、短期アルバイトをしていた。
建長寺は鎌倉時代に、鎌倉幕府五代執権の北条ほうじょう時頼ときよりの命令によって、禅僧の蘭渓らんけい道隆どうりゅうが創建したものだ。『太平記』には、足利尊氏あしかがたかうじが出家するために滞在した逸話がある。
歴史浪漫あふれる寺を目にしながらのアルバイトを、さらに充実した時間に変えてくれたのが、そこで働いていたベテランの年配女性店員さん達に教わったことだった。
建長寺発祥のけんちん汁は本来精進料理なので肉は入れず、代わりにごま油で炒めたこんにゃくを入れること。
店で使う柳葉包丁と言うよりドスじみた包丁の柄に巻き付けられた荒縄には定期的に水をかけて湿らせ、滑り止めにすること。
家の改築のために地面を掘ると、いまだに鎌倉幕府滅亡時の戦乱で亡くなった犠牲者達の骨がわんさか出てくること。
これらのことに加え、雨が降る前日には蛇が木に登るという、前出の「弔千手」で使わせてもらった蘊蓄うんちくも教わった。
こうした話の中で、安倍晴明あべのせいめいまつった塚が近所にあると教わった時には、好奇心が大いに刺激された。そこで、勢いにまかせてアルバイトの帰りに探しに行ってしまった。
そして、迷った。
方向音痴なのを忘れていたせいだ。
それでも、無謀な前進を続けて迷いに迷った末、どこかの踏切の脇に「清明塚」と刻まれた、高さおよそ三十から四十センチくらいの石碑を見つけた。文字の上には、五芒星にそっくりで有名な晴明桔梗紋ききょうもんが彫られていたので、正確に表記すると「⛤清明塚」となる。
この塚の周りには、いくつか無銘の小さな石碑があった。
さんざん道に迷って疲れていたので、その日はそのまま帰宅し、また明日じっくり見ようと決めた。

翌日のアルバイト帰りに、再び同じ道を通って清明塚を目指した。
しかし、踏切にはたどり着けたものの、清明塚はどこにもなかった。
近くにあった小さな石碑群も見当たらない。
これらを移動させた痕跡すら、ない。
昨日の今日で、清明塚と周りにあった石碑群が跡形もなく消えてしまったのだ。
一瞬、道を間違えて似たような踏切に迷い出たかと思ったが、踏切の向こう側に見える店と看板は昨日とまったく同じものだった。
だから、方向音痴ではあるが、私は昨日と同じ踏切にたどり着いている。
ならば、清明塚も石碑群もあってしかるべきなのに、やはりない。
あれから二十年以上の歳月が流れたため、どういう行程でアルバイト先の店からその踏切へ行ったのか、まったく覚えていない。
それでも、道の両脇に店や家があり、その先のちょっとした空き地だか駐車場だかがある所に線路が横切り、くだんの踏切があったことは覚えている。
そして踏切の、向かって右側に清明塚と小さな石碑群があった。
私が歩いていた時刻は、午後五時半から六時頃だ。大型連休の時期だったので、まだまだ空は明るかったから見落としようがない。

数年前、こうした記憶と観光ガイドやネットを頼りに、「弔千手」の取材をするついでに、清明塚を探しに行ったことがある。
おかげで見つかった清明塚だが、「安部清明大神」と、記憶よりも文字数が増えているし、晴明桔梗紋がなかった。しかも、石碑の形が異なる。設置場所が踏切のそばなのは同じだが、あの日の踏切とはどうも違う。
単に私の記憶違いで、「安部清明大神」の石碑こそ、かつて私が見た清明塚なのかもしれないが、あまりにも外観の特徴が一致しない。
せめて、晴明桔梗紋が刻まれていたなら、自分の記憶違いだったと思えるのだが、そうではないからもどかしい。
それにあの日、清明塚と石碑群が一日で消えた謎の説明がついていない。
勘違いで片づけるのは容易たやすいが、あまりにも清明塚を見た記憶が鮮明に残っている。

こういうのを、日常の謎と言うのだろう。
まことに恥ずかしい話、推理小説家の末席を汚している身でありながら、冴えた仮説ひとつ思いつかない。
文字数をオーバーした上に解決編もないとは、何とも締まらない話だ。
どなたか推理できた方がおられたら、ぜひともお教えいただきたい。


【連載バックナンバー】

3月 伊吹亜門(その1)

4月 羽生飛鳥(その1)

5月 戸田義長(その1)

6月 伊吹亜門(その2)


■伊吹亜門(いぶき・あもん)
1991年愛知県生まれ。同志社大学卒。2015年「監獄舎の殺人」で第12回ミステリーズ!新人賞を受賞、18年に同作を連作化した『刀と傘』でデビュー。翌年、同書で第19回本格ミステリ大賞を受賞。他の著書に『雨と短銃』『幻月と探偵』『京都陰陽寮謎解き滅妖帖』『焔と雪 京都探偵物語』『帝国妖人伝』がある。

■戸田義長(とだ・よしなが)
1963年東京都生まれ。早稲田大学卒。2017年、第27回鮎川哲也賞に投じた『恋牡丹』が最終候補作となる。同回は、今村昌弘『屍人荘の殺人』が受賞作、一本木透『だから殺せなかった』が優秀賞となり、『恋牡丹』は第三席であった。『恋牡丹』を大幅に改稿し、2018年デビュー。同じ同心親子を描いたシリーズ第2弾『雪旅籠』も好評を博す。その他の著作に『虹のはて』がある。江戸文化歴史検定1級。

■羽生飛鳥(はにゅう・あすか)
1982年神奈川県生まれ。上智大学卒。2018年「屍実盛」で第15回ミステリーズ!新人賞を受賞。2021年同作を収録した『蝶として死す 平家物語推理抄』でデビュー。同年、同作は第4回細谷正充賞を受賞した。他の著作に『揺籃の都 平家物語推理抄』『『吾妻鏡』にみる ここがヘンだよ!鎌倉武士』『歌人探偵定家 百人一首推理抄』がある。また、児童文学作家としても活躍している(齊藤飛鳥名義)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?