【創立70周年記念企画】エッセイ「わたしと東京創元社」その1:笠井潔、北村薫、田口俊樹
東京創元社では創立70周年を記念し、文芸誌『紙魚の手帖』にて豪華執筆陣による特別エッセイ「わたしと東京創元社」を掲載しています。
本日と来週は、『紙魚の手帖』vol.15(2024年2月号)に掲載されたエッセイをご紹介いたします。
笠井潔 Kiyoshi Kasai
人生で最初に読んだ創元推理文庫は、たまたま家にあったヴァン・ダインの『僧正殺人事件』で、小遣いで初めて購入したのは、エラリー・クイーンの『エジプト十字架の謎』だった。高校を一年で中退した直後に、既読作を含めて国名シリーズの通読に挑戦した。その際の初読作で記憶に残ったのは『シャム双子の謎』と『チャイナ橙の謎』。『バイバイ、エンジェル』は『エジプト』の本歌取りだが、『チャイナ』の発想は『哲学者の密室』に影響している。「さかさま」の密室だ。
SFでは『イシャーの武器店』をはじめ、ヴァン・ヴォークト作品を愛読した。コリン・ウイルソンの『賢者の石』は十回以上も読んでいる。こんな具合に子供のときから東京創元社の本を数多く手にしてきたから、『バイバイ、エンジェル』が創元推理文庫入りしたときは嬉しかった。国名シリーズや、ヴァン・ダインのマーダーケースシリーズと並んで、矢吹シリーズ全十作が黄色の背表紙で揃うところを早く見たいものだ。
北村薫 Kaoru Kitamura
今から六十年以上前、ワセダミステリクラブに入ったばかりのわたしは、
――明日、戸川さんが来るぞ。
と聞き、うちに帰って親にいった。
――大学って凄いよ。戸川昌子が来るんだって。
広く知られた作家の話が聞けると楽しみにして行ったら、来たのは若き日の戸川安宣さん――いうまでもなく、のちの東京創元社社長だった。その日はがっかり。しかし、そこから縁が繋がった。
わたしの文章を読んだ戸川さんは、《あなたなら書ける》と解説を依頼してくださり、さらに《あなたならできる》と『日本探偵小説全集』の編集をまかせてくださった。おそろしいほどの信頼だ。しかし、ホップ、ステップの後には、ジャンプが待っていた。戸川さんは、不思議な杖を振るように《あなたなら……》といい、とうとうわたしに『空飛ぶ馬』を書かせてしまった。褒められて育つ子はいるものだ。
戸川さんをはじめ、何人もの魔法使いがいる、この世の幻影城――それが東京創元社なのである。
田口俊樹 Toshiki Taguchi
一九八八年刊のクレイグ・ライスの『第四の郵便配達夫』の新訳が創元さんとの初仕事だ。あの戸川安宣さんからお声がかかった。初めて喫茶店でお会いして、緊張しまくった。ちょうど教師を辞めて翻訳一本で食っていこうと決めた頃のことで、大きな決断をなさいましたね、と戸川さんに言われ、なぜか誉められたような、嬉しいような、同時に一気に将来が不安になったような、複雑な気持ちになったのを覚えている。
その後は長らくぽつぽつとさみだれ式のつきあいが続いた。それが六年まえからエンタメ翻訳職人冥利に尽きるような仕事をさせてもらっている。ハメットにチャンドラー、それにロス・マク、いわゆるハードボイルド御三家の新訳だ。御三家それぞれ一冊ずつ訳させてもらった。中でもチャンドラーの『長い別れ』を訳せたことはささやかな私の翻訳人生最大の宝だ。そんなふうに思える仕事の機会を与えてくれた東京創元社には感謝しかない。ますますのご発展を!
本記事は『紙魚の手帖』vol.15(2024年2月号)に掲載された記事「わたしと東京創元社」の一部を転載したものです。
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