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画面の向こうとこちら側『傘がない』井上陽水

さてさて今回は井上陽水さんの『傘がない』の歌詞について書きたいと思う。筆者はこの歌をリアルタイムで聞いていた世代ではないし、特に井上陽水さんのファンという訳でもない。ただこの歌詞には思い入れがとてもあり、それは筆者の父の影響がとても大きい。

聞いたことがない方は。まずは井上陽水さんの公式YouTubeをどうぞ(期間限定らしいのでこのnoteを読んでる時点で配信が終わっていたらごめんなさい)。

筆者の父はどちらかといえばPOP音楽などより、哲学書とかを好むタイプの人だったので、父が音楽を聴いているという時点で気になったのを覚えている。とくに井上陽水さんは好きなようで、この『傘がない』の歌詞の解釈を聞いたとき「あぁ音楽の趣味もやはり父だな」と感じた記憶がある。

『傘がない』ってどんな歌詞

傘がないの歌詞を筆者なりに要約すると、

「都会では自殺する若者が増えていると新聞に書いてある。けれど問題は今日の雨を防ぐ傘がないこと。君に逢いに行かなくちゃいけないのに。

テレビでは日本の問題について話している。けれど問題は今日の雨を防ぐ傘がないこと。君に逢いに行かなくちゃいけないのに。」

みたいな感じ。全文を知りたい方は↓のリンクを参照してくださいな。

この歌詞は発表当時はそうとうに話題と衝撃を与えたらしい(筆者の父情報)。筆者も父の解説を聞いてからは、歌詞の深さとパンチ力にクラッときたものだ。

何がそんなに深いのか

さてさてこの歌詞はなにがそんなに深いのか。ここからは筆者の父の解説と、筆者の解釈の話なので、異論反論があるのは100も承知で書いていく。

この歌の歌詞は、「都会で自殺する若者が増えている」コトよりも「君に逢いに行くための傘がない」コトが問題だと歌っている点にあるのだと思う。つまり「見知らぬ誰かの自殺」よりも「自分の傘がない」コトの方が問題だととらえているワケです。同様に「日本の問題について語る」コトより、「君に逢いに行くための傘がない」コトが問題と感じているワケだ。

誰がどう考えたって「自殺」>「雨に濡れる」なワケで、「日本の問題」>「雨に濡れる」なワケだが、これが画面の向こう側とこちら側になると違うワケだ。新聞やテレビの向こう側の大問題よりも、目の前の自分の小さい問題の方が自分にとっては大きな問題なんだと、井上陽水さんは歌詞にしたワケですね。

現代人にとって、社会的な問題が自分の実生活と切り離されて、まさに「テレビや新聞の向こう側」の問題としてしか捉えられなくなっているって、ことなんだと思います。社会と自分の実生活が延長線上にない感覚なんですよね。

これって筆者達にとっても言えることだと思うんですよ。

外国のクーデターよりもマスク

ミャンマーでクーデターが起こるよりも、目の前がマスクをしていないことに目くじらをたてるワケです。それが良いとか悪いとかではなく、人間なんてそんなもんだと、『傘がない』の歌詞は端的についてるんですよね。

それってけっこー筆者的には怖いことだと思います。世界と自分が乖離しているというか、つながってる感覚がなくなっていくと、人間なんてどこまでも自己中心的になってしまうと思うんです。

『傘がない』現象はそこら中にあるし、周りにもそういう人は多い。それも現代社会じゃ自分でいっぱいいっぱいで仕方ない部分もあります。

それでも少しは「新聞やテレビの向こう側」と自分がつながっている感覚を持ち続けたいと、この歌を聴くたびに思い出すんですよね。

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