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「雨に唄えば」

四月の雨がだいすきだ。雨には色んな名前がある、五月雨とか長雨とか、瀑とか霧雨とかスコールとか、だけどそれは、雨のはなし。雨なんか誰でも知ってる。俺がしたいのは「この」雨のはなし。ぼくしか知らない「この」のはなし。

歌う、唄う、詠う、うたうことの目的は結局そこにあるんだと思う。ひとつしかない「この」を表す、現す。take place、場所を持たなきゃ「この」は生まれない。存在することもない。うたうことは、場所になることだ。全神経と、ありったけの呼吸を注ぐ。大のおとなを何人も巻き込んで、馬鹿げた時間を準備に費やして、何万円のギターに何百ワットの電流を注いで、俺は俺の「この」をかたちにする。そうやってはじめて「この」は人に伝わる、と思っている。

もうすぐ22歳になる21歳、ぼくはまだロックバンドをはじめたばかり、まだどこにも場所をもってない「この」雨をひとつひとつ丁寧につかもうとした。慎重に、慎重に、つかんでさわって、壊れないようにやさしく確かめていく感覚が「雨に唄えば」にはつまってる。恥ずかしいくらいに。だからこの曲はいつまでも、なんだか俺のお手本みたいだ。

ロックンロールはいつも『うたえるような気がする』くらいのものだと思う。それは届かないとか叶わないってことじゃなくて、そんな予感や期待につけられた名前だと思うから。当たり前にあると思っちゃいけない。ぎりぎりうたえるかもしれない。場所を持てる、かもしれない。自分に言い聞かせて、繰り返しうたってきた。油断も失敗も山ほどした。それでも予感がある。期待がある。胸を打つ。

『あいしてるから、もうちょっと』子どもが子どもを口説くみたいに下手くそに、大真面目に、俺はもうちょっとうたいたい。ぼくがみつけただいすきな雨を、きみに見せてあげたい。

東京パピーズ    木村太郎

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