地球儀を自転車にのせて 第三回「やさしい人」

地球儀を自転車にのせて
木村太郎

第三回「やさしい人」


そんなに熱心なファンではないけれど、サウナは好きだ。というか水風呂が好きだ。冷たい水が大好きだ。水道水だって、いつもがぶがぶ飲んでいる。

水はなんというか清潔な感じがいい。雨とか川とか、風呂を磨くときとか。漱石の何かに出てきた花瓶みたいなやつの水とか。海の良さはまた少し違うけれど、でも海もたまにそういう感じになる日がある。

そういう機微がないのがいわゆる東京砂漠というやつで、サウナは都会のオアシスということになっている。そんな立派なものだとは思わないけども、疲れもとれるし、友達とだらだら話すにもうってつけなので、なんだかんだ月に一度くらい通っている。



このあいだは時速36kmの仲川と板橋の有名なスーパー銭湯に行った。昼過ぎに待ち合わせて、気がついたら夕飯時だった。すっきりしたからね、さっぱりしたもの食べようね、なんて言いながら駅前をぐるり一周したが、ろくな店がやってない。

諦めて池袋でも行こうと決めた矢先に、黄色い暖簾の古い中華屋を見つけた。カウンターに10席くらい、常連の爺さんたちが、飯も頼まず酒を飲んでいる。これはきっといい店だ。煙草も吸えるし…

爺さんたちの負のオーラに怯む仲川を後目に、瓶ビールと餃子を頼んだ。頼んだ後で壁にかかった札を見たら、ラーメンが380円のいかれた店だった。

仲川は400円のニンニク焼きそばをうめえうめえと一瞬で平らげていた。さっぱりとは何だったのか。途中から一緒に飲み始めた店主のひどく長い人生論を、真剣に聞いていた。

彼は出会ったときから、やけに僕に懐いてくれている。とても可愛い。可愛いんだけど、たまにちょっと狂気じみている。

僕が、正直つらいわ〜みたいな、いい加減な弱音を吐いてみると、彼は「いや。太郎さんはそういうこと言わないんです。かっこいい人なので。僕の中では。」などと真面目な顔で諌めてくる。

ええ…そんなぁ…って思う。そんなのありかよ。でも、まあ、確かに、そういうもんか。そっちの方が本当のことかもしれないね。



「やさしい人」はどこにいるんだろう。僕はクソ、世界はクソ、君はやさしいから好き、みたいな気分でずっといられたら楽だけれど。

困ったことに、誰かにとって自分はとっくに「やさしい人」だったりする。その眼差しを、まっすぐ見つめ返せたことが一度でもあるだろうか。

今の自分をやさしいと言う人を前にして、もっとやさしくなりたいと願うのは、正しいことなんだろうか。僕がもっとやさしくなれば全部うまくいく、そんな単純な話じゃないよな、と思った。思い知った。そういうときに作った。

こんな難問に満点の答えは出せないので、足りない分はワーッと叫んでギターを弾いて、なんとかするしかない。結構なんとかできたと思う。大切な曲です。

この曲を作ったときの気持ちは、あんまりにも悲しいものなので、話せることはあんまりない。中華屋の話でお茶を濁しました。



やさしい人はどこにいるんだろう。なんとなく岸辺にいるんだろうと思った僕は、やっぱり田舎者で、古臭い東京砂漠の一員だ。

乾きと水、雨と街、昼と夜、この切望と怨念は、僕をずっと引き摺り回す衝動だ。これからも付き合っていくことになると思う。

そんな打ち合わせは一つもなかったけれど、監督の谷中さんはそういうのにピンとくるすごい人だった。

昼間からずっと、彼は思い描く雨を待っていて、夜になってやっと、これだ、と撮影を開始したのでした。このMVの雨は、けっこうすごい雨なのです。

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