「痛みはかばんに突っ込んで」

七ヶ月連続リリースも残すところあと三曲。ここまで古い曲も多く、ブログも古い話が多かったけど、ここからは僕がもう少し大人になってからつくったものが続きます。だからあまり客観的な話もできないんだけども。「枯葉」はきっと痛みについてのうたです。そう思って書いたというより、書いてしばらく経ったいま、ゆっくり考えているところです。

痛みって何だろう。それはたいてい絶望とか死とか憂鬱と同じ棚に並べてある。並べておくことになっている。けど全然ちがう。違うんだけど、他に置いとく棚がないから、とりあえずそこに並べておく。心にはどうもそういう100円均一みたいなところがあって、自転車の鍵が園芸コーナーにあって、それもなぜか不思議と納得できてしまうもので。店のなかを、記憶の道を、通うたびそれが当たり前になっていく。専門的に言えばそれは比喩とか象徴効果というやつで、僕らはそれとよく似た力を使って詩を書いたりする。

そう、痛みは比喩だ。ちょっと残念な感じもするけれど、それは間違いない。感傷はもちろん現実の血が出る傷口も、身体が危険を「たとえて」警告している。それは死とは違う。死は事実だ。そして死は人を「比喩的に」傷つける。だけど傷口はある。痛みはある。少なくとも痛みのもとはある。たとえ比喩でも痛みは実在する。「心に穴が空いた」とよく言うように、痛みは喪失に似ているけど、本当は何も失っちゃいない。減っちゃいない。それは喪失感のもとではあっても、喪失じゃない。痛みは実在するものだ。(本当に心に穴が空いてしまったらそれは心じゃなくなってしまうかもしれない。それは絶望や憂鬱と関係がある。)

そういうふうに、俺は俺なりにけりをつけようと思ったんじゃなかろうか。痛みは持ち物だ。 場合によっては宝物だ。それはぼくの部屋にあたらしくやってきた。かばんに突っ込んで、通勤電車に乗り込めばいい。お守りみたいに。入れっぱなしでいい。そしたら線路に飛び込むようなきもちから守ってくれるかもしれない。本当はどうせ、季節に逆らわずに生きていける日なんて来ないんだとわかってる。ちいさないのちでも、どうにか、いつも同じドアを開けて生きたいと願っている。

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