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『脱中心化の制作法で映画をつくる』意味をこえる身体へ のきろく#1

『意味をこえる身体へ』は、アートプロジェクト『東京で(国)境をこえる』のメインプログラム、『kyodo 20_30』から派生した企画です。

この企画は2020年度の『kyodo 20_30』の活動の中で、参加者が共同制作のプランを考えたときに発案されました。2020年度は新型コロナウイルスの感染拡大により実現できなかったので、今年度の『kyodo 20_30』でフリンジプログラムとして実施しています。
この企画の中心となっているのは、2020年度と2021年度に参加している蔣雯(ジャン ウェン)さん達です。

今年も新型コロナウイルスの影響を受けましたが、オンラインで企画を進め、撮影をスタートすることができました。
この企画は『東京で(国)境をこえる』にとって重要な、新しいコミュニティの育て方、あるいは参加者同士がフラットな関係で作る「共同制作」について、彼女たち独自の実験的なアプローチを試しています。どうぞご期待ください。

『東京で(国)境をこえる』ディレクター 矢野

『意味をこえる身体へ』撮影日誌 #1

こんにちは。『意味をこえる身体へ』代表の蔣雯(ジャン ウェン)です。
俳優と映像作家として活動しています。今は東京藝術大学映像研究科博士課程に在籍しています。

このプログラムでは、ショットムービーを撮影しています。「ショットムービー」は英語の造語で「shot movie」と書きます。
ショット(瞬間的な断片)が重なることでできるムービー(映画)という意味で、このプログラムで制作する作品の特徴を表現しています。あるいは、単体では意味を持たないショットが重なることで必然的にムービー(物語)になってしまうという現象も示しています。

このプログラムのコンセプトは「意味をこえる身体」です。
意味を伝える記号としての身体ではなく、他者と共存する世界そのものを映像に撮ることを目指しています。
その中で重要なテーマになっているのは、「脱中心化」の制作法です。通常、映像作品では監督や編集者の一方向的な意図を俳優が反映するように制作され、監督や編集者の意図が強く反映されます。しかしショットムービーでは、そうではない方法で共同制作を行います。

9月26日に、ショットムービーの初回撮影が経堂アトリエで行なわれました。初回の撮影にも関わらず、プロフェショナルのチーム感と自由創作の「遊び」感、両方が備えられた撮影で、良い開幕になったと思います。それはチームメンバーのプロ意識とお互いの信頼感のおかげです。

撮影方法は、「脱中心化」の理念にしたがって、各部門がお互いの創作をサポートしながら、それぞれの専門分野で自由に創作しました。
具体的な役割分担としては、まず私がプロットを全員に伝えて、カメラマンの呉楽さんがカメラワークとカット割りをデザインし、私が演出を考え、俳優の綾田さんと有紗さんがカメラワークと演出の制限の中で自由にアクションをするという流れでした。
役割分担といっても、実際に操作するときにははっきり分けたわけではなく、私もカメラワークを提案したり、呉さんも演技プランにアドバイスしたりしました。つまり、専門によって役割分担をしながら、時々専門の境をこえて、お互いの創作を刺激しながらサポートしました。

私は現場で主に演技演出をしたので、その感想をいくつか記録させて頂きます。

身体によるコミュニケーション

まず、演技演出は主に言葉ではなく身体によるコミュニケーションで行ないました。脚本がないため、俳優はとにかくカメラの前でいろんなアクションを提供し、言葉ではなく身体を使って撮影側と相談、調整し、制作していきました。

通常、映画の制作では技術的な演出にかける時間が多くなりますが、今回は技術部門をなるべくシンプルにしたおかげで、演技の演出にかける時間を多く設けられました。
撮影後に俳優の一人である綾田さんに今日の感想を聞いたとき、綾田さんはこのような演技演出は演劇と似ていると言いました。確かに、ショットムービーの演技演出は、演劇の稽古とよく似ているかもしれません。映画の撮影現場は、こんなに長くアクションを吟味する時間はありません。そのため、脚本を用意して、俳優に意味を正確に伝える基準を与える必要があります。

でも、ショットムービープロジェクトは「意味をこえる身体」を目指しています。正確に意味を伝達するよりも、俳優一人一人の身体を引き出すために時間をかけたいです。
よく映画俳優は普段どうやって訓練しているのかと聞かれます。私が理想とする訓練は、劇団のように、演出家、カメラマン、俳優という比較的固定したメンバーからなったチームが、いつも一緒に何かを撮影している状態です。

映画的身体創作

もう一つの感想は、映画演技が俳優だけの仕事ではないと感じたことです。
私は撮影現場でずっとカメラを通して俳優のアクションを見ていました。そこで気づいたのは、俳優がカメラの前で演技をしている時、カメラに映された身体は直接に肉眼で見た身体とは違うもののように見えるということです。
当たり前のことを言っているかもしれませんが、肉眼で見た身体は現実世界の一部で、カメラから見た身体は「カメラが見た世界」の一部です。

なぜそのように見えるのかを考えてみます。
「カメラが見た世界」にはカメラマンや演出家の世界観(フレーム、カメラの運動、色調など)があります。またカメラは焦点を当てたものを全て映してしまいます。その意味で、現実世界に生きている俳優は「カメラが見た世界」の中の演技を自分の力で完成することができません。なぜなら、カメラの中の演技と現実世界の演技は絶対的な隔たりがあるからです。

映画の演出において、俳優には何をするかの指示が与えられますが、どのようにするかはよく任せられています。実際に俳優は演じながらカメラに映されている身体を確認することができないので、俳優の身体創作は経験だけに頼る暗中模索と言えます。
俳優は素の状態を出す限りにおいて自己性を出すことができますが、フィクションの次元で自己性を出すことはとても難しいです。なぜかと言うと、人の自己性は結局自分が一番わからないものだからです。
例えば、キャラクターに「ひと味を加える」というより、「ひと味が出る」と言った方がいいかもしれません。なぜかというと、個性は人為的に作ったものではなく、演出側と俳優が相互的に創作する環境によって生まれるものだと考えるからです。

俳優の個人的な身体性を撮影側と俳優が一緒に引き出していることが、映画的身体創作技法の特徴ではないかと考えました。

次回の撮影は10月31日(日)に行われる予定ですが、とても楽しみです。

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執筆者:蔣雯 俳優/映像作家 東京藝術大学大学院映像研究科博士課程在籍 「意味の境をこえる身体へ」ショットムービープログラム代表

写真:井上明日香


この活動に興味を持った方がいたら、ぜひ『kyodo 20_30』に見学にきてください。詳しくはこの記事で紹介しています。👇