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ルドン「私の黒(ノワール)」〜大きな「眼」が意図するものとは?

フランスの画家オディロン・ルドン(1840-1916)は、50歳頃に色彩を取り入れるようになるまで、「黒の画家」として知られ、木炭を用いた多くの作品を残しました。彼は初め油絵に挑戦しましたが、木炭の素朴さが彼の感性に合っていました。ルドンの作品は多くが幻想的で、宙に浮かぶ目や首、子どもの顔、奇妙な怪物、悲しげな人々の顔などが描かれています。これらの作品は、単なる木炭の黒さ以上に、彼の内面的な世界を反映した不気味さと暗さを感じさせます。

オディロン・ルドン『眼=気球』1878年 ニューヨーク近代美術館蔵
「エドガー・ポーに」 Ⅰ. 眼は奇妙な気球のように無限に向かう

フランスのボルドーに生まれた彼は生後2日目で親元を離れ、親戚の老夫婦の広大で殺風景な荘園で育てられました。幼いルドンにとって、家族から引き離されたという疎外感は強く、人里離れたペイルルバードでの育ち方が彼の人生や人格に大きな影響を与えました。

ルドンの画風に影響を与えた3人の人物がいます。1人目は、ペイルルバードで15歳のときに出会った地元の風景画家スタニスラス・ゴランです。彼はルドンに素描の基礎を教え、ドラクロワ、コロー、ミレーといった画家たちの作品の素晴らしさを伝えました。

2人目は、17歳のときに出会った植物学者アルマン・クラヴォーです。クラヴォーを通じて、ルドンは顕微鏡下の微生物や植物の細胞、花粉などのミクロの世界を知りました。また、クラヴォーは文学や哲学にも詳しく、インドの詩やポー、ボードレールの詩をルドンに読み聞かせ、東洋哲学についても教えました。後に描かれる一連のルドンの植物のモチーフは彼の影響が大きいと思われます。

3人目の幻想的な版画を制作していたロドルフ・ブレスダンとは24歳の時に出会います。彼はフランス各地を放浪していた画家で知られ、版画の魅力と想像力の重要性をルドンに伝えました。ルドンは自身の木炭や版画による絵画を「私の黒(ノワール)」と呼び、この黒の世界で奔放な空想と独自の造形を追求していくことになりました。

同時期に活躍していた印象派のモネやマネが目に見える現実を直接的に表現したのに対し、ルドンは自分が感じ取った現実を表現する作品を制作しました。これは印象派とは全く逆のアプローチでした。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもありますが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあり、独自の道を歩んだ孤高の画家という立ち位置を確立していきます。

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