若者のすべて
夏休みが終わったというのに、教室の中は蒸し風呂のような状態になっていた。
天気予報によるとピークは過ぎたが、まだまだ夏のような暑さが続くらしい。
「あぢぃー」
声に出し教科書で体を扇いでみるが、生暖かい風が吹き付けられるだけだ。
マスクを着けているから、暑いのは勘弁してもらいたい。
教室の窓から外を見ていると、突然肩を叩かれた。
振り返るとニヤニヤしたカズの顔が目の前にあった。
「顔、近ぇよ」
「いやいや、大ニュースなんだって!」
カズの言う“大ニュース”は信用ならない。俺が驚くと思って喋ったら、既に知っていた事柄ばかりだ。だからカズの“大ニュース”はあまり期待せず聞くようにしている。
「ハイハイ、何?」
「あー!ユウト、俺がまたくだらない話でも持ってきたと思ってんだろ?」
「うん」間髪入れずに言う。
「うわ、ひっで〜!でも今回の話は俺らのクラスしか知らない情報だからな」
「ふーん」
まだ、このくらいでは乗る気にはなれない。
だいぶ自信があるのか、カズは笑みを浮かべてタメを作る。
「ついに……。教室にクーラーが付くってよ!!」
「ふおっ!?」
まずい。あまりにもタイムリーな話だったからか、変な声が漏れてしまった。
「なんだよユウト〜。ふおって!アハハハ!」
思った以上の反応だったのか、カズは上機嫌になっていた。
カズに一本取られるとは一生の不覚。
だが、その話が本当ならこれ以上喜ばしいことはない。ここは素直に喜ぼう。そう思った時だった。
「だがクーラーが付くのは来年の春だぞ…」
急に机の横から顔が現れた。
「ふがっ!?」
今度は二人して変な声を出した。
今日は不意を突かれることが多い日らしい。
顔を出したのは橘。同じクラスの女子で、寝ているのか起きているのか分からない目をしている。俺ら三人は幼馴染だ。
「えっ?来年の春?マジかよ〜橘」
「ってお前は知らなかったのかよ」本気で驚くカズに突っ込む。
「えー、だってクマ公はクーラーが付くとしか言ってなかったもん」
クマ公はカズのクラスの担任で、体が大きく、熊みたいに真ん丸の目をしていることからそう呼ばれている。
「てか何で橘が知ってんだ?」俺は尋ねる。
「私の母がPTA総会で話が出たって言っていた…」
「マジかよ〜」
またしてもカズの“大ニュース”は結果的に不発に終わった。
とここで俺はある事実に気付く。
「あれ?来年の春ってことは、俺らもう卒業してんじゃん」
「ん?」
カズは目を点にしている。しかし、次第に点だった目が見開いていき、口があんぐりと開いていく。
「そうじゃん!!俺らもういないじゃん!!夏のクーラー体験できないじゃん!!詐欺じゃん!!」
「いや、詐欺ではないだろう…」橘がつぶやく。
「いーや!これは詐欺だ!控訴する!」
「控訴って、一度負けているではないか…」橘が再びつぶやく。
なおもカズは不平不満を漏らしていたが、俺は別のことを考えていた。
確かに来年の三月で卒業することは分かっていた。
でも、そんな日がやって来る、というのが信じられなかった。
頭では分かっていても、高校を卒業した日常を想像できないのだ。
人は絶えず未来の日常を考えて生きていくことなどできない。今を生き抜かなければ未来はやってこないからだ。
そしてそんな風に日々を消費し、気が付いたら“大人”という社会の歯車の一部になっているのだろう。
そう考えた途端、俺は勢いよく席を立った。
× × ×
「この坂、三人で歩くの久しぶりだよな〜」
「だが塾を休んでしまったではないか…」
「ああ、悪い」
俺は二人に一緒に帰らないか誘った。別にどこかへ行こうと決めていた訳ではない。ただ、自然と昔三人でよく遊んだ場所へと足が向いていた。
あの日と同じ坂を高校生になった三人が登っていく。
午後に通り雨があったせいで道は濡れていた。
気温と相まってジメジメとしていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
いつもとちょっと違う日常が不快な感覚を忘れさせてくれるのかもしれない。
三人で昔話をしながら坂を登りきった時だった。
「ふぁ!?」
俺ら三人は同時に変な声を発した。
坂の上からは街を見下ろせるようになっているのだが、その視界の中央に、綺麗に半円の弧を描く虹が架かっていたのだ。
雨が上がって間もないからか、その色はくっきりとしていた。
こんなハッキリとした虹を見るのは初めてだ。
俺らはしばらく、自然が作り出す幻想的な景色を眺めていた。
すると夕方を告げるチャイムが聞こえてきた。
もう半年もしたら俺らは高校を卒業する。
そして、それぞれ違う道を歩む。
その未来は想像もつかない。不安も期待もある。もしかすると、現実に打ちひしがれる時が来るかもしれない。
でもそんな時、きっと俺は夏の終わりに見たこの光景を思い出してしまうだろう。
辛い時、目を閉じると思い出はいつも側にある。
もしかすると、思い出を作ることこそが、若者のすべてなのかもしれない。
同じ空を見つめながら、そんなことを思っていた。
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