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もっとおもしろいSNSは作れるはず(2)
⬇️前回
SNSは議論や対話に向いてない!?
先日、東浩紀さんの『訂正する力』という本を読んだのだが、その中でSNSという場所は議論や生産的なディベートには向いていないという趣旨のことが書かれていた。
私たちは普段だれかと会話するとき、意外とたくさんの訂正をしている。自分の話したことが言葉足らずだったと感じたり、喋っているうちに心境に変化が生まれたりすることがあるからだ。
だからそう思ったときには「いや、さっきのはそういう意味じゃなくて…」みたいな感じでスッと訂正する。
しかしSNSなどの文章でこのような訂正をするのはかなり難しい、と東さんは言っている。文字だけでそれをやろうとすると支離滅裂で一貫性のない意見と捉えられてしまいがちだからだ。
リアルな対話では、言葉という情報以外にも表情、声色、身振り手振りなど非言語的な部分から話者の意図を汲み取ることができるが、活字だけの場合、文字面から100%汲み取る必要がある。
SNSが、「話し合い」に向いていないのは、著名人の投稿のリプ欄を観察してみてもよく分かる。
そこには「信者」か「アンチ」しかいないのだ。これでは「著名人本人」「信者」「アンチ」の三者の誰も成長できないし、学びもない。そしてとても居心地が悪い。
なぜ信者やアンチはよくないのか、それは考えることを放棄しているからだと思う。例えばアンチと批判は似ているようでまったく違う。アンチは何も考えていない。
ちょっと前に蛙化現象という言葉が話題になった。蛙化現象とは、要するに「解釈違い」であり、それは「信者」から「アンチ」に変わっただけだ。
相手をモノとして消費している感覚に近い気がする。
もし気に入らないことが起きても、それを手で払いのけるように切り捨てるのではなく、一度自分の中で咀嚼して再解釈を試みることが必要だ。そうすることで信者とアンチの二項対立を脱構築できる。
しかしそのような第三の道は、SNSというバトルフィールドにおいて曖昧で中途半端で地味な意見にしかならず、極端で過激で感情的な万バズ投稿の陰に隠れてしまう。こうなってしまう背景のひとつにはTwitterの文字数制限があると思うが、それを奪ってしまったら「拡散力」という強みも同時に失いかねず、もはやTwitterではなくなってしまう。
様々な側面から考えれば考えてみるほど、SNSの「話し合い」との親和性のなさがことごとく証明されていく。
でも、逆に「上質な話し合い」が活発にされるようなSNSを作ることができれば、それはおもしろいSNSに一歩近づいたと言えるだろう。親和性が低いとはいえ何かしら良い方法があるかもしれない。
次回はそんなことについて考えてみようと思う。
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