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ものすごくおそろしくて、ありえないほどかわいい

 彼女の花田はなだ雪子ゆきこは小さくてかわいいものが好きだ。

くまちゃん! 見て見て、猫だよ! かわいー!」

 彼女はデートの途中であっても、俺から離れて猫まっしぐらになる。
 それはいつもの光景だ。

 そして猫は彼女に気づくや否や、素早く茂みに飛び込んで姿を消してしまった。
 ――それもいつもの風景だ。

「逃げちゃった……。あ、かたつむりさん」

 今度は紫陽花の葉の上で見つけたかたつむりに手を伸ばす。
 刹那、かたつむりは殻の中に身をすくめた思うと、驚異の瞬発力で転がるように茂みの奥へと消えた。

「池のほうにも行ってみよう、花ちゃん」

 しょんぼりする彼女に向かって、俺はさり気なく話題を変える。
 ――ここまでが、いつものお約束だ。


 彼女には不思議な特性があった。
 それは、小さくてかわいいものに拒絶をされるということ。
 だけど、いくら小さいものに引っ掻かれようがわめかれようが嫌われようが、彼女は小さくてかわいいものが好きなことを諦めなかった。
 見た目はおっとりとした女の子らしい女の子なのに、芯の強さに俺はベタ惚れだった。

 *

『公園内にお越しいただいているお客さまにご連絡です。不忍しのばず動物園から二頭の大型動物が脱走しました。捜索と捕獲のため、公園を順次閉鎖中です。大変危険ですので――』

 不忍池しのばずいけの睡蓮畑を眺めていると、物騒な園内放送が流れて周囲もざわつき始めた。

「なんだか危険そうだね。ここから離れようか」

「う、うん……」

 浮かない表情の彼女の手を引いて、俺たちも早足に駅へと向かう。

「熊ちゃん、何かあったら私を守ってくれる?」

 背中からかけられた不安げな声。
 何かって、大型動物に出くわしたら? それがライオンだったとしても?
 花ちゃんは俺のことを甘く見ている。
 俺は冗談ではなく、君を守るためなら死ねるとすら思っているんだよ。
 俺は繋いだ手を強く握り直す。
 愛する彼女のために、安心する言葉をかけようと振り向き、目と口を大きく開けて叫んだ。

「ゾウとカバっ!?」

 なんの冗談だ。
 いや、むしろ冗談であってほしかった。
 振り向いて彼女よりも先に見えたのは、アジアゾウとカバの爆走だった。
 しかもなんの因果か、俺たちがいる方向へと走ってくる。
 人々は蜘蛛の子を散らすように逃げまどい、池へ飛び込む人までいた。
 阿鼻叫喚の地獄絵図。
 競い合うように並走する二頭は異様すぎた。
 固まる彼女の手を引き、二頭に背を向け今度は駆け出す。

「ぱおー!」
「ゔぉゔぉゔぉー!!」

 大型動物は痛覚が鈍感なのか?
 池の淵に設置されたベンチや柵が弾け飛ぶ音は聞こえるが、一向に大きな足音は止まらない。

「きゃ!」

 小さな悲鳴と同時に、手から重みが消えた。
 振り返ると、彼女が地面に膝をついて青ざめていた。
 後ろには片方だけ脱げたハイヒールが転がっている。
 くそ、しまった。
 彼女を抱えてでも、全力で逃げるべきだったのだ。

「花ちゃん!!」

 迷うことなく俺は地面を蹴って引き返した。
 猛獣たちが起こす地響きは近く、脳が痺れる錯覚を覚える。
 絶対に彼女を傷つけさせない!

 数メートルを戻る一瞬は、無音の中にいるようだった。  
 ようやく彼女の元に手が届いて全身でかばおうとしたら、ゾウとカバが目鼻ゼロ距離にいたので俺は「さすが、重量がトン単位の動物は顔がデカいんだなー」と、思った。

 *

「ぱおー♡」
「ゔぉゔぉー♡♡」

 彼女には不思議な特性があった。
 それは、小さくてかわいいものに拒絶をされるということ。
 ただし、大きくて恐ろしいものには狂信的に好かれるということ。

 先ほどの騒ぎが嘘のように、唖然とする彼女の膝元でゾウとカバはごろごろと腹を見せて甘えていた。
 俺はというと、10メートルほど突き飛ばされはしたが、特に怪我はないようなので問題はない。
 立ち上がって服についた土を払う。
 彼女に危害は及ばなさそうだと判断して、警察に電話をかけた。

「もしもし、不忍池でゾウとカバを捕獲しました。いえ、今は大人しくしています」

 電話の向こう側が急に騒がしくなり、俺は少し声量を上げた。

「はい、そうです。僕は高橋和人、、、、と言います。連絡先は――」

 彼女には自覚があった。
 自分が大きくて恐ろしいものに好かれることを。
 それがコンプレックスで、いくら嫌われても小さくてかわいいものに固執してしまっていることも。

「ねえ……」

 電話を切った俺を呼ぶ彼女の声には、温度がなかった。
 ここまでのトラブルは初めてだから怖かったのだろう。
 俺は用心しつつゾウの脇をすり抜けて、そっと彼女の小さな肩を抱き締めた。

「……熊ちゃんは……違うよね?」

 耳元の言葉を理解した瞬間、背中に冷たい一筋の汗が伝い落ちた。

 身長205センチ。
 格闘家体型。
 切れ長の一重に角刈り。
 プーさんに似ているからついた、「熊ちゃん」という愛称。
 腕の中にいる、ふた回りほど小さな彼女。

 まさか。
 もちろん俺は、自分の意思で彼女を好きになった。
 でも、その一言で早く彼女を安心させたいのに。
 さっきから喉の奥が異様に乾いて、震えが止まらないのだ。

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