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「コント対談」   満たされた、空っぽな私 あるいは矢切のわたし


  非情のセンチメンタル。過激派、極道、そしてハードボイルド。


「こんにちわ、リクール先生。今日は、ぜひ政治・文学にごゾウケイが深い先生の話をおうかがいしたいと思います。先生の現象学的解釈学について、お聞きします」

「ポールと呼んでくれたまえ、のーと君」

「ジャン=ポール?」
「それはサルトル君だよ」

 (ポール・リクール、ジャン=ポール・サルトルはともにフランスの哲学者。ちなみにジャン=ポール・ベルモンドはフランスの往年の映画スター)


「じゃあ、へい、ポール。
 先生の思想は20世紀の2大潮流、現象学と解釈学のアウフヘーベン、つまり止揚(しよう)を企てたものといわれています。
 この理解でよろしいでしょうか」

「シロウト的にいいんじゃない」

 (止揚とは、矛盾するものを対立させ闘争させながら、そのプロセスをも発展させて統一しようとする、ドイツ人好みのえらそーな専門用語)


「デカルト的合理論とイギリスの経験論を批判することによって、乗り越えたカント。それが観念論となった。
 さらに観念論とそれを批判した唯物論を、あわせて乗り越えようとしたのがフッサールの現象学。

 またその現象学と、つづいて現れた解釈学をも、さらにあわせて乗り越えようとなさっているのが、先生なんですね。
 あー、しんど」

「なんだかボクが、カントとフッサール、ふたりのムッシュのまねしているような感じじゃないか。まあ、やってることは同じだけどね」


「わたしの解釈だと」
「誰の」

「わたしです」
「わたしの解釈とテキストの解釈では、大いに意味がちがうんだよ、キミ」

「あー、そうですか」
「あっ、その怒った顔、忘れないで。その時、わたしとテキストは止揚されているんだよ」


「そうなの。その止揚されたわたしが思うに、ですね。あれ、いうの忘れちゃったよ」

「意識のたそがれ、沈みゆくテキストの群れ」

「ホンマ、小うるさいオッサンやで」


ニーチェさん




「コマンタレ ヴー?」

「ジュヴェトレビアン メルシ エヴー? それで、先生」
「ケルタン フェティル?」

「イルフェボー エ イルフェドゥ。よろしいでしょうか」
「いいよ」


「ところで現象学とは、いったい何ですか)
「ひと言でいって、裸の王様を、すなおに見る子どものまなざしみたいなもんだね」


「なるほど。じつは先ほど出た、サルトルと現象学の出合いにこんなエピソードがあります。
 若い頃、政治と文学に興味があったカレは悩んでいました。モノ的に政治・経済に有利な唯物論と、ヒト的に文学・芸術に有利な観念論。

 唯物論は外面的でフットワークがいいけど、内面性に欠ける。いっぽうの観念論は内面的で背後の世界ばかりを解きすぎて、行動力に欠ける。
 パサパサ感とメソメソ感。ふたつのいいところを両立したいと思った。

 その時と、その頃恋人だったボーヴォワール女史はのちにいっています。一緒にカフェにいた時、たまたま今流行りの現象学の話題になった。
 ジャン=ポール、とそのとき、また同じく隣ですわっていた大学の友人レイモン・アロンが、ワイングラスをかかげながら、カレにいったそうです。

ねえ、ジャン=ポール。もし現象学を知ると、このワインについてしゃべれるんだよ
 それを聞いたサルトルは、おもわず持っていたワイングラスを落とすほど手が震えたと、女史は語っています」

(アロンが持っていたのはカクテル、という説もある)


「おもしろい話だね」

「カレは解き放たれたかのように、フッサールの本を読んだそうです。実存主義に結実しました。
 そして仲間たちと、『去りゆく者は後ろ姿だけしか見えない』のスローガンを掲げました。
 そんな風に現象学は捉えられたそうです。先生はどう理解しているんですか」


「まだモノそのものに、徹していないね。主体が残っている。
 カントの後にまだ見えないものにあこがれるロマン主義があらわれ、戦前の日本に多かった、世間知らずの哲学青年みたいなもの。
 彼らの現象学も、安っぽいハードボイルド的センチメンタルに過ぎないね」



「ところで話は変わりますが、先生はゴルフをなさるんですか」

「穴にタマを入れて、何がおもしろいのかね。
 おおっ、キミ、新しいひらめきのインスピレーション。これには、初めに主体が見えていないぞ。

 人はゴルフといえば、芝生とか何番アイアンとか、えらそうにウンチクを語るが、肝心なモノが欠けている。穴が見えていない。
 穴という(無)がなければ、プレーが始まらない。タマや道具もあってもしようがない。

 穴が初めにありき。穴は存在に先立つ。対象は主体に先立つ」


「興奮なさらないで、お茶でもどうぞ」

「ありがとう。ズズッ、うまい。まっ茶入りだね。
 見たまえ。伊藤園のお茶が入っている、この湯のみさえ、無が先んじている。湯のみという存在ばかりに目がいって、肝心のお茶を満たす、穴の無を見ていない。

 無が、すべての存在を造りだしているというのに



「あのう、お言葉ですが、むかし中国の老子がすでに似たようなことをいっています。
 無が初めにあった。無が一を生む。
『家』も『服』も、その中の空間がなければ、意味がないって」

「えっ、そうなの。先立たれたか。
 そのようにわれわれのこの会話も、たぶん誰も最後まで聞いていないし、誰もみてもいないだろう。

 そんなさびしい、❤️を押す人さえいない無観客の中で、響く虚しい問いかけ。
 でもわたしの発する言葉は、無がすべての存在を生産するような、やがて夢から覚める矢切のワタシでもあるんだ」

「なんのこっちゃ」





































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