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旅の言葉 3. おれとおまえはハンドインハンド

外国を旅して、
建築とか美術作品を見るたびに思うことがある。

多くの人が入社したがる大企業に
大学卒などを書類や試験で
初めに、ふるい分ける場合があるのは
けっして差別しているわけではなく、
予選で、仕事できる内容を理解できるだろうか
の能力を見るためであり、
大多数集まる企業ではしかたないこともある。
これぐらいなら大丈夫だろうと?


大学でも受験があるのは
書いてあるペーパーテストの内容を理解できて、
入学して授業についてこられるかを見るのであって、
別に差別しているわけではないだろう。
区別はしているかもしれない。
体育学校も少しも運動能力がない人が
ついてこられるか、とても心配です。

つまり入学できる頭のいいということは
テストの内容を理解できている能力であり、
企業に入って仕事内容を
初めに、理解できるかを見るためもある。
何もわからない人を集めるとき、
それも大多数押し寄せる場合、
しかたないかもしれない。
大多数が募集するところに
すべての人を入れることもできないし、
事務処理も大変。

だからといって理解できるから
仕事内容の才能があるわけじゃない。

野球理論をよく理解しているから
野球選手になれるわけではなく、
大学教授や評論家になれても
芸術家や作家になれる保証もない。

公務員とか国から保証されている企業は、
比較的安全でも内部では
権力争いの才能も必要だし
肩書だけで才能ある人を見抜けなかった企業は
没落していくのは必然だった。

ただ物事を理解できなければ、創造も生まれない。
創造は理解なしに生まれない。

大学教授や評論家は
絵画を理解して研究や評論をするけれど
芸術家は、理解が目的でなく
理解してじぶんのなかに享受して
新たに創造する。
芸術家にとって、
芸術とは「何か」ではなくて
「どんなふうに」を求められるだろう。

しかし芸術家にとっても、
名声やお金もないよりあったほうがいいし、
生活に困らない程度あれば、
もっとも必要であり、
いちばんありがたく頼りになってくれるのは
じぶんを理解してくれる人である。

この人がいなければ、
わたしが存在できないこともあるだろう。
才能あるタレントも
理解してくれるプロデューサーがあってのことで、
プロデューサーも
才能あるタレントがあるからこそであり、
芸術家も、評論家やプロモーターあっての
ことである。

ともにじぶんのどこに才能があるか見極めて、
芸術家と、評論家やプロモーターの相合的な
協力がなければ、いい作品は生まれない。

文学においても、作家だけでは生まれない。
評論家や編集者なしでは、
けっしていい作品が生まれないのは
あたり前だった。


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 この古くかけてくすんだ彫像と、遮光ぐあい。前の2枚同様、生写真からスマートフォンに取り入れたら、日頃見たことない幻想的な写真に出来あがった。日本の仏像を見なれているように、金ピカな仏像はどうも馴染めないのに似ているような。イタリアはどこを歩いても古都の奈良、あるいはボクのふるさと長崎を思い出させてくれる。

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