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「短編コント」  春よ来い、ある日の夏目和尚  (侏儒ものがたり)


 * いつも政治家や、経済的余裕をもらえる商売人のお墨付すみつきをもらって、初めて価値観を決めているかのように

 1.

 朝、夏目和尚は窓から心地よい風が吹きぬけるなかで、顔を洗っていたら、ふと僧院に入る前の日々が浮かびあがってきた

 国を思い志士になりそこねて、あとに残っている立身出世は学問でしかない、遅れて来たかのような青年の一人だったカレ
一生懸命勉強して学者の道に入ったものの、外見の良さとはちがった、虚しい気持ち
オレはこんなことをするためにがんばってきたのだろうか、
オレの生き甲斐は象牙の塔で活躍して偉くなって、勲章をもらうことが夢だったのか

 そう思うカレには、荘子の中にある一文がいつもひっかかっていた

 古代中国の春秋時代の覇者となった桓公かんこうが堂の上で本を読んでいたとき、下で車輪の細工をしていた輪扁りんぺんさんがふと、
お読みになっている本がいくら聖人の言葉でも、そんなものは昔の人の意見の残りかすでしかありませんね
そういったら殿様、向き直って、車大工のぶんざいで生意気にいうとはなんだ、いい加減ないいぶんだったら承知しないぞ、と怒ってしまった

 私は、私の仕事の経験から判断して申し上げているのです。 車輪の細工をするときに、ゆっくり削りますと、あまくなってぐらぐらします。かといって、あまり速い調子で削りますと、こん どはしまりすぎて、はめこむことができません。その、ゆっくりでもなく速すぎもしないという 加減は、手で知って心に伝わるだけで、口でいい表わすことはできません。 しかし、そこにコツがあることは確かです。そのコツを、私は自分の子にわからせることができず、その子も私から 受け取ることができません。ですから私も、七十のこの年齢になるまで、老いぼれながら車輪の細工をつづけている始末です。
 昔の人も、やはり自分の考えを他人に伝えることができないままに、死んでいったにちがいあ りません。 そうだとしますと、殿様が読んでおられる本も、昔の人の意見の残りかすだということになるではありませんか。

  荘子 第十三 森三樹三郎訳 中公文庫


 そうなんだ、人の書いた文章の落ち穂ひろいしてなんになる
でもなかなか、長年考えて踏ん切りがつかない
そして中年も過ぎて、あと何年生きられるかわからない時になって、初めて決心した
作家になろう
用心深いカレをやっと決断させたのだった

 でもそこから、ちがった意味でとても大変だった、頭を悩ましていった
決して奥さんが悪いことではなかった、
奥さんとしてはあたり前、
ただ他の奥さんよりいささか厳しいだけだった
それが、カレの寿命をおびやかす悩みともなっていた

 初期のマンガ家たち、手塚治虫さんたちのように世間の偏見や貸本時代の貧乏と同じで、作家を志すのは大変だった


 すべて新しいクリエイティブをめざす者は困難がつきものだった
政治活動や宗教活動が国家から保護され、文化芸術は金まわりがよくなるまで、世間の目は冷ややかなのは歴史をみても明らかで、
大衆はいつも政治家や、経済的余裕をもらえる商売人のお墨付きをもらって、初めて価値観を決めているかのようであった

 当時は江戸時代の戯作者みたいに思われて、坪内逍遙が小説を書いたら、福沢諭吉から学士のくせになんだといわれる始末だった
以前にも言ったことがあるけど、えらい学者でも身分が低い父親を持つ諭吉さんは、封建制度は父のかたきでござるといって、学問のススメなど、こんどは学者の地位向上をめざしていったのだ

 でも歴史は繰り返すで、金に余裕ができ社会的地位が上がってくれば、学者も作家もマンガ家も中味が空洞化してくるのは、政治と同じように、人間社会のお馴染みのパターンだった

 それでは夏目さんの奥様のいいぶんを、ちょっとちょっと奥様のいいぶんをちょっとだけ、聞いてみましょう


 2.    

ー いきなりやめちゃって、これからどうするのよ

ー いや、新聞社と入社契約しているから、なんとか大丈夫だよ

ー そんなもの、あてになるもんですか、小説を書くたって売れるかどうか、これからさき小説を書いていけるかどうかもわからないのに、かってに学校やめちゃってどうするのよ子供、学費が高くなるのに、もうじぶんひとりで生きていきなさい

ー まいったな

ー まいったじゃ、ありませんよ、うちのお父さんも、あいつは見どころがあるといったから結婚したのにどうしようもないわ、このあいだも、通りで神門サンの奥様に遭って嫌みをいわれたのよ

 “あら、夏目の奥様、ごきげんいかが。わたくしの主人、今度東北の大学に転勤赴任になりましたのよ。教授職があいていたようで、いつまたこちらの東京の大学に戻ってこられるかわかりません。もっとも二、三年すると戻ってこられるともいっていましたけど、宮仕えはほんと大変ですね。それにひきかえ、うらやましいわ。自由で、なんの束縛もされないご職業、尊敬しています。それではごめんあそばせ”

あっどうも、ほんとに嫌みったらありゃしない、ダメよ、要領よく生きなきゃ

ー でも勝海舟がもう徳川幕府はダメだと思って失業したけど、要領よく幕府方に残っていたら、きっとうち首か、みんなから晒しものになっていたかもしれない

ー そんなのわかりませんよ、森サンだって、うまく作家とお仕事を両立させていらっしゃるじゃありませんか、どうしてあなたにおできにならないのですか、やらないだけじゃありませんか

ー カレだって大変なんだよ、好きな踊り子さんとも親から反対され泣く泣くあきらめて、なんでも外国からカノジョ押しかけて来たみたいだよ、それに出世競争で大親友ともケンカ離れしたみたいで、九州の小倉まで左遷されて、そりゃもう小説のネタになっても私生活は大変

ー あー、言えばこう言う、あなたは白樺派のお坊ちゃんたちじゃないんですよ、あんな立派ないい小説書いて食べていけるわけがない

ー そう、シガ君のおじさんは銅山で儲けて、公害出しっぱなし、ある山では小学生の時から働かされている子供もいるし、でもカレらのいいところは他の金持ちの道楽息子とちがって、小さい人々にもあたたかいヒューマニズムに溢れているところだね、そこが悩みの種でもあるんだ、非力というか限界というか、最終的にはいつも「お金持ちでごめんなさい」になっちゃう

ー なってもいいじゃありませんか、なってみたいですよ、ほんとに


 それでは、ここで一曲お聴きください


 いましばらく、10歳の東亜樹さんの歌声を聴いてみましょう

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