人間ってきもいな〜って思った話

こんにちは!KOHです。
タイトルにあるように、最近「人間ってきもいな〜」って思った話をします。

みなさんの周りにはこういうツイートをTwitterでする人いませんか?
「今日は夜遅くまでサークルのメンバーと3時間もミーティングしてめっちゃ疲れたけど、めっちゃ充実した時間を過ごした〜毎回学びになるしまじでこのサークル最高😂😂 」
「今日は⚪️⚪️の講演会わず、一対一で話す時間があって役に立つ話たくさん聞けた。もっともっとがんばろ」
「今日は⚪️⚪️の面接〜緊張したけど、相手の人にすっごい褒めてもらったからよかった!😂😂 受かるといいな〜」
こんな感じで、自分がしたことやがんばったことをアピールするような人は多いとおもいます。
その一方で、
「意識高い系まじで嫌い、いちいちツイートしなくていいことをわざわざするの腹がたつ」
「いちいち自分がんばったアピールするやつまじうざい」
という風に、ツイートしたり口に出すかは別として、こういう人もいると思います。意識高い系を見下し、自己アピールする人から一歩引いて、下に構えて物事をみる人たちです。そして、双方に一定数お仲間やアンチがいると思います。

僕自身、前者になることもあれば後者になることもあるので、人のことは全くもっていえませんが、両方に対してなんとなくした違和感がありました。
その違和感がなんなのかを言語化しようとずっと考えていましたが、ある就活系の記事でそれがはっきりしました。
これがその記事です。

熊谷真士『「内定企業ラベル」という分かりやすい価値を追い求めた短絡的な男性、自分』
https://www.onecareer.jp/articles/896
ライターの熊谷真士さんによる記事です。この方の記事を読んだことがある就活生も多いのではないかと思います。
簡単に内容をまとめますと、就活生は内定先マウントをしがちだが、それが社会人になってゆくと会社名でマウントしなくなる代わりに、社内での評価や業績の争いに移って行く。これらは結局人間の「他者より優位に立ちたい」という欲が根元にあり、就活生にとっての内定先はかつて学校での「足の速さ」「ケンカの強さ」「勉強の成績」などとなんら変わり無い。ただ単に人生のステージごとに、優位性を競うルールが変わるだけだという。ここまでは、自分も一度は考えたことがあることだが、ここから先が自分がハッとなったところである。「マウントのし合いはこりごりだ、自分はマウントなんてしない」という人も結局は、マウントでしかない。「マウントなんてしない自分」は、「何かとマウントする人」に比べて偉いんだぞ、というアピールである。

この記事を読んで、自分が抱いていた違和感に納得しました。
結局、意識高いアピールする人も、それを一歩引いてみる人も、「人より優位に立ちたい」という点に関して本質的には一緒だと。マウントのし合いにすぎないんだと。結局みんな偉そうなことをいってるけど、要は自分の欲を満たしたいだけやんって思いました。
これに気付いた時、「人間ってまじできもいな」って真剣に思いました。そして、自分も無意識にどっちかをきっとしているので、そんな自分もきもいと思いました。

しかし、そこまでたどり着いたところで、次に何を考えればいいでしょうか。人間は結局互いに相手の優位に立ちたい、きもい、おしまい、なんてしたら無気力感に襲われるだけです。ここまでわかったところで、その先に何を見出せるのでしょうか。
僕自身ここはまだ答えがだせていませんが、漠然と人間のこの「人より優位に立ちたい」という性質をなんらかの形でポジティブに受け入れるしかないんだと思います。
このような性質には、醜い側面もありますが、人類の発展を促してきたポジティブな側面もきっとあるんだろうと思います。人間のこの性質を頭ごなしに、否定してはいけないと思います。
その上で、「人より優位に立ちたい」という性質が自分にあることを認めた上で、それによって視野が狭くならないよう常に心がけなければいけないと思います。他のものを捨ててまで、何かを頑張る人って周りを見たら結構いると思います。
家族との時間を犠牲にして仕事に励むサラリーマンとか、睡眠時間や友達と遊ぶ時間を捨ててまで学生団体の仕事に打ち込む学生とか。別にこれらの人を全否定するつもりはないですし、程度差もかなりあるので一概にいえませんが、自分が犠牲にしているものが果たして本当に犠牲にしていいものなのか、自分が今何かを犠牲にしてまで頑張ってるものが本当にそれに値するのか、これらを立ち止まって考える必要は常にあると思います。
こんな偉そうなことを言ってますが、僕自身視野が狭くなること多いですし、犠牲にしちゃいけないものをよく犠牲にします。でも、不器用なりに、できる限り意識していきたいと思いますし、それが自分の効用最大化につながると思います。

そういえば、以前サークルの人間関係に悩んで、いろんな人と話して、こう思ったことがあります。自分が敵対していると思った人も、落ち着いて相手の立場に寄り添って話したら、意外と理解しあえると。ただ、お互いのプライドとかが邪魔しているせいで、このような対立に発展したのだと。このような不器用さを人間は誰しも、程度の差こそあれ、持っていることに気がつきました。ここまで気付いた時、人間を不器用で可愛い存在だと思いました。

プライドだったり、「人よりも優位に立ちたい」「自分を認めて欲しい」という欲だったりを人間は誰しも持っているが、それを完璧に器用に扱えるわけではありません。それによって人間関係を壊したり、敵を作ったり、何か大切なものを犠牲にしたりします。こういった人間の不器用さを、かわいいものとしてとらえるのか、きもいものとして捉えるのか、ということだと思います。結局ぼくが抱いている「可愛い」という思いも「きもい」という思いも表裏一体だったんだと思います。
その上で、僕は、自分や他人のこういった性質も受け入れて、自分も周りの人も幸せにできるような人でありたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?