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中村憲剛という最高にアンラッキーで、最高に幸せな選手の人生をリアルタイムで見られた幸せ。

いよいよ、恐れていたときが来てしまいました。

ミスターフロンターレこと、川崎フロンターレの中村憲剛選手の引退。

正直な話として、私は熱烈なJリーグファンというよりは、あくまでW杯の日本代表ファンであり、川崎フロンターレについてもそんなに頻繁に試合を見に行っていたわけではありませんし。
なんちゃってフロンターレサポーターぐらいのフロンターレサポーターではあるのですが。

ここ15年ぐらいの私のJリーグの思い出は、中村憲剛選手の思い出ばかりと言っても過言ではありません。

丁度川崎フロンターレさんが、noteで「#OneFourKengo ケンゴにありがとうを届けよう。」という記事募集企画をされるというので、遅ればせながら一つ記事を書いておきたいと思います。


私のフロンターレサポーター人生は、奇しくも中村憲剛選手が正式に川崎フロンターレに入団した2003年に始まりました。

私が結婚して、引っ越し先に新丸子の小さなアパートを選んだとき。

私は川崎に住むのが初めてでしたし。
大学生時代に名古屋グランパスサポーターだった人間としては、川崎のサッカーチームと言えばヴェルディ川崎であり、川崎フロンターレの印象はほとんどありませんでした。

ただ、そのアパートは、実は川崎フロンターレのホームグラウンドである等々力陸上競技場から歩いて10分もかからない場所にあり。
週末はサポーターの歓声が聞こえてくるようなところでした。

丁度2004年はフロンターレが、J1への昇格争いをしていたこともあり、私はたまに川崎フロンターレの試合を見に行くようになり、フロンターレの試合結果をスポーツニュースで気にするようになっていきます。


最初の数年は、名古屋グランパスサポーターでもあり川崎フロンターレサポーターでもあるという中途半端な人間でしたが。

長男が生まれ、長男とともにたまに試合を見に行くようになり、私は初めて自分でサッカーチームのグッズを買うことを決意します。

当然ながら購入したのは中村憲剛選手の背番号14のタオル。

私のような素人の目から見ても、中村憲剛選手の存在感は別格で、本当に特別な選手でした。

今では、我が家には、私と長男、次男の3枚の14番のタオルがあります。


ただ、失礼を承知で申し上げると。
当時の私からすると、「中村憲剛はついてない選手だな」と思っていたのが正直なところでした。

当時、日本のサッカー選手で「中村」といえばなんと言っても中村俊輔選手という時代。
私個人は中村憲剛選手を応援してはいるものの、同世代に同じ苗字の選手がいることによって、明らかに中村憲剛選手が2人目の中村という印象になってしまっていたのは否定できない現実だったと思います。

オシム監督によって日本代表に招集されたときは、とても嬉しかったのを覚えていますが、南アフリカ大会では、日本代表が快進撃を続ける中、あまりプレー時間をもらえず私自身も悔しく見守っていましたし。

ブラジル大会のメンバーからまさかの落選という結果になったときには、正直ザッケローニを少し恨みつつ、やっぱり中村憲剛はついてないなぁと思ってしまった記憶があります。


その中村憲剛はついていないなぁという印象は、川崎フロンターレがタイトル獲得に苦労して、シルバーコレクターと揶揄されるようになる過程で、より強く私の中に印象付いていくことになります。

個人的に最もその感覚を強く味わってしまったのが、2017年のルヴァンカップ。
幸運にもチケットを手に入れることができた私は、長男と二人で、川崎フロンターレの初の戴冠の瞬間を目撃すべく、浦和スタジアムまで南北線に揺られて遠征したわけですが。

開始一分で、あっさりとゴールを割られ、その後の90分間、スタジアムから中村憲剛選手を見ていて、「やっぱりダメなのか」という思いがどんどんと積み上がっていったことを良く覚えています。

ひょっとしたら、中村憲剛選手はこのままタイトルがとれないのかもしれない。
あんなに才能に恵まれている素晴らしい選手なのに、なんでこんなに彼はついてないんだろう。そんなことを勝手に思っていたことを良く覚えています。


しかし、中村憲剛選手がついてなかったのは、そこまででした。
ルヴァンカップ決勝で敗戦したとき、私は勝手に、シーズンの優勝も諦めてしまってしまいましたが、中村憲剛選手をはじめとしたフロンターレの選手は諦めず。
最後の最後で逆転優勝を成し遂げます。

当時DAZNを駆使して、片手のiPadでアントラーズの試合、テレビでフロンターレの試合を見ながら。

とにかく早くアントラーズの試合が終わってくれと祈るように見ていたことを良く覚えています。

優勝の瞬間、グラウンドに突っ伏して泣き崩れる中村憲剛選手を見ながら。
私自身も、思わず泣いてしまったのを今でも良く覚えています。


中村憲剛選手の、アンラッキーな人生が、実はこのあとの幸運な人生のための少し長めのプロローグに過ぎなかったことに気づかされるのはそれからしばらくしてからのことです。

2018年には連覇を達成。
2019年にはルヴァンカップ決勝で奇跡の大逆転劇で初優勝。

さらには11月に左ひざの前十字靱帯を損傷し、引退も危ぶまれたのに。
2020年に地道なリハビリを経て、復帰戦でいきなりループシュートを決めるという劇的な復帰を果たします。

その2020年、チームも記録的なスピードで3度目の優勝を決め。

中村憲剛選手は、選手としてもチームとしても最高に幸せなタイミングで引退発表することができたわけです。

中村憲剛選手はなんでこんなについてないんだ、と勝手に思い込んでいた選手が、見事に最高に幸せなエンディングを見せてくれました。

なにしろ、あのイニエスタとトーレスも絶賛しているわけですよ。
最高です。


1サポーターとしては、当然まだまだ中村憲剛選手のプレイが見たいですし、引退を撤回して欲しいという思いはもちろんありますが。

こんな劇的にアンラッキーで、最高に幸せなサッカー選手のストーリーは、どんな小説家でも描けないんじゃないかと思います。

そんな中村憲剛選手の素晴らしいサッカー人生を、1フロンターレサポーターとしてリアルタイムに一緒に一喜一憂させていただけたことは、本当に幸せなことでした。

中村憲剛選手、本当にありがとうございました。
今後の中村憲剛選手の、新しい活躍も、楽しみに拝見させて頂きます。


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