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映画『正欲』の感想

『正欲』という映画を観たのでその感想を書いていこうと思う。

この映画は水フェチなどのマイノリティな嗜好を持った人が主題となる作品で、マイノリティな一面を持つゆえに感じる孤独感や、周りの普通の人たちの一般的な価値観の押し付けなどが描かれる。そういった中でそのマイノリティさとどう付き合っていくかという作品となっている。

作中では水フェチで共同生活を始めるようになった仮面夫婦の他にゆたぼんっぽい子どもyoutuberも出てくる。本作で描くマイノリティというのは性的嗜好以外にも学校に通っていない子どもという、普通とは違うとされる境遇を持つ存在も含めていると思われる。そういったあらゆる普通から外れた存在が出てきてそれぞれの普通になりきれない想いなどが描かれるという話になっているのである。

ラストシーンで離婚調停中の警察官が水フェチ仮面夫婦の妻と対峙するシーンがあるがそのあたりのシーンは印象的だった。水フェチ仮面夫婦という特殊な夫婦と一般的に普通とされる夫婦、普通に考えれば後者がまともとされるが、実際に相互理解しあっているのは前者という対比がこのシーンでは描かれる。セリフでは明言されないが、このシーンでは価値観を認め合える存在が身近にいるということが重要なのだと思わされた感じがする。

ただ世間に認めてもらうというところまでセットで描こうとするのはどうなんだろうという風にも思った。認め合える存在が必要だということはわかるけど身近な人に認めてもらえれば世間に認められなくても「別に良くない?」と思ってしまう面もある。もちろん周りからの「普通」の圧が辛いということはわかる。それ自体は現在の世の中ももっと変わった方が良い面もあるだろうし他者に対する目がもっと寛容になったり多様性を尊重する社会になった方がいいというのは確かだろう。現在の社会がそうなるに越したことはないとは思う。

ただそれは結局社会レベルで改善をするべきという話であって、個人の幸せというレベルで考えれば別に世間に認められなくても十分幸福に生きていくことは可能なのではないだろうか?この作品を見ていると個人というミクロな視点と社会というマクロな視点を混合して描いている感じがして、マクロな問題が解決されない限りミクロな問題も解決されないというように主張しているように感じてしまった(ここにおいては監督も原作者も意図はしていないと思うがどうしてもそう感じてしまった)。

社会的な「普通」の圧の問題が解決されなければ個人の幸せも成就されないという考えを進めると「マイノリティに対して究極的に寛容な社会が出来上がればマイノリティ存在が現在普通とされている価値観を持つ人と同じように生きることができる」という仮説が組み立てられると思うが、そもそもその「究極的に寛容な社会」というものが実現不可能だと思う。社会に対して寛容さを要請すること自体はするべきだと思うが、その寛容さがすべてのマイノリティに適用される社会というのは理想論に過ぎないしマイノリティの嗜好自体が犯罪と合致する場合もあるのでそれを許容することを検討するなら倫理的な問題も生まれるだろう。

作中の問題を拡大解釈している面もあるかもしれないが、マクロとミクロの問題をごっちゃにして受け取ってしまったのでどうしてもそう感じてしまった。

ただここまで考えながら書いて思ったけど水フェチ仮面夫婦の幸福自体は実現しているという解釈の仕方もある気がしてきた。幸福というと大げさかもしれないが、マイノリティという生きづらさを抱えながらも価値観を共有できる他者と出会えているわけだからそれなりの幸せはつかみ取っているのかもしれない。対して警察の吾郎ちゃんは妻と価値観が会わず離婚調停中という対比もある。マイノリティやマジョリティに関わらず価値観を共有できない辛さや共有できる喜びがあるということを描いている作品だったのかもしれない。

そう考えると味わい深い作品という感じがする。考えれば考えるほど新たな文脈や対立軸が浮かぶようになっている気がする。映画を観終わった時よりもこの記事を書いた今の方がこの作品に対しての見方が増え、さらに好きになれた気がするので感想を書いてよかったかもしれない。

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