映画『羅生門』の感想
たまには古い映画でもということで『羅生門』という黒澤明の映画を見てみた。
なんというか今の映画にはない感じの描写が多くてめっちゃ好き。まず全体的に汚いキャラクターが多い。まぁこれは時代設定もあるんだけど、今の映画だとこんな題材汚すぎて選ばないだろうという感じ。
自分としてはこういう汚い感じの方が好きだったりする。三船敏郎ってもちろんハンサムなんだけどどことなく泥臭い感じがあって、そういった汚い面が男視点で見ると魅力的に映るのかもしれない。
逆に最近の俳優は綺麗すぎるから共感できないのかも。これは自分だけかもしれないけど主演がイケメン俳優とかだとそれだけでちょっと敬遠してしまう。もちろん見てみると面白い作品もあるとは思う。ただやっぱり昔の汚い感じの雰囲気の映画の方が共感しやすさはあるように感じる。
誤解されないように言っておくとイケメン俳優を使うなと言っているわけではない。どちらかというと演出とか衣装、メイクの問題だと思う。演出と衣装次第ではイケメン俳優でもこの泥臭さみたいなものを出せるとは思う。もちろん需要があるかはわからないので自分の好みに合わせろと言うつもりはないけど(でもできればそうなってほしいとは思う)。
ちょっと話がそれたので本題に戻すととにかくこの映画、汚いのである。
ほとんど全員ボロい布をまとって、顔もどこかの銭湯に行ったらいそうなそこら辺のおじさんという感じの庶民感。もちろん三船敏郎だけはその中でもオーラはあるけどそれ以外はほぼ普通の人感ある。
そんな汚い雰囲気から作り出される物語の内容も別の意味で汚い。ただ汚いというだけでなく人間のエゴを描いているという点で非常に興味深い話である。
映画『羅生門』の内容と感想
端的にこの話を要約すると、1人の藪の中で死んでいた武士をめぐってその武士がなぜ死んだのか様々な証言者が語るという内容。その証言が全く食い違っているので「真実はどうなのか?」というのを考えるのがこの映画の主題。
この映画は『羅生門』というタイトルだが、芥川の『藪の中』と『羅生門』が合わさったような作品となっている。どちらかというと『藪の中』要素の方が強い。
武士が死んだ事件の証言は以下の順で語られることになる。
1:多襄丸という盗賊
2:死んだ武士の妻
3:亡くなった武士の霊を代弁する巫女
4:一部始終を陰から見ていた杣売り
そしてここに出てくる全員が何らかの心理的利害のために証言を捻じ曲げているというのがこの映画の面白いポイント。証言者は全員、自分を良く魅せたり嫌なことを隠すため話のどこかで嘘をついている。
自分が読み取った限りでは4番目の杣売りが一番正確に実情を話しているように感じた。なぜなら利害的に無関係な人を目撃しただけなので嘘をつく理由がないからである。1つ嘘をついているのであればなくなったとされている女の短刀をすべて終わった後に死体から盗んでいったということだろう。それ以外は本当の話だと思う。
杣売りから語られる話で面白いと思ったのが盗賊と武士が戦闘をするシーン。盗賊が証言するところでは自分は勇猛果敢に戦ったと言う盗賊だけど、杣売りの証言のところだとどうにも情けない感じの戦闘シーンとなっている。
最初に刀を合わせるだけでやたらとビビってるし、双方逃げまどう場面が多いし情けない感じに映る。このあたりのリアル感がめっちゃ好き。
この情けない感じはyoutubeとかで見る喧嘩してる動画の雰囲気に似てる気がする。実際に喧嘩してるところを見ると格闘技や映画のようにかっこいいわけではなくて泥仕合っぽいことが多いと思う。変なところで転んでいたりパンチが不格好だったりとそういう情けなさがリアルの喧嘩にはある。
そういう人を殴ったり斬ったりするときのリアルさをかっこつけずに描いているのは逆に斬新で面白いと感じる。
盗賊自身はこのような泥仕合でビビりながら武士を殺してしまったというのが受け入れられなかったのだろう。だからこそ戦闘シーンも盛って話す。受け入れられないことは都合よく解釈してしまう。この映画では他の証言者も多かれ少なかれこういう都合の良い解釈をして自分を良く見せようとしている。全員自分のために嘘をついているのである。
映画『羅生門』的なことは現実でもありがち
この映画を見て残酷な映画だと思う一方でこういうことリアルでも結構あるよなぁとも思う。
自分を良く見せるために記憶を捏造するなんて多くの人がやってると思う。やってないと思っている人は捏造がうまい人なのかもしれない。
そういう人は自分でも記憶を捏造したことに気づかないほどその嘘が真実だと自分に言い聞かせて嘘を真実だと思いこんでいるだけなんじゃないだろうか。
ただ自分としてはある程度都合よく記憶を捏造するのも必要だと思う。人がすべての真実をそのまま受け入れるのは難しいと思うからである。すべての真実を受け入れるためには自分の悪い面とも向き合わないといけないので非常につらいと思う。
もちろんある程度の真実は受け入れないと反省ができないので成長もできない。だけどすべての出来事で自分の悪さと向き合いすぎてしまうと絶対に病んでしまう。人の自己正当化機能は残酷にも思えるけど自分を防衛するという観点からすると必要悪なのだろう(記憶を捏造しすぎるとそれはそれでヤバそうだけど…)。
締め
この映画のモチーフの1つである『藪の中』はもう10年前くらいに読んだ。もうほとんど覚えてないのでこれを機に読み返してみようかなぁと思う。
黒澤映画はなんか画面を注視してしまう魅力がある気がする。最初に杣売りが山の中を歩くシーンとかも何気ない場面なんだけどなんか見てしまう。このシーンはやたらと長い。しかも杣売りが歩いているだけである。でもカットと音楽次第ではいい感じのシーンになるのは面白いと思う。
結構面白い映画だったので今度は別の黒澤映画でも見てみようかと思う(正直音声聞き取りにくいけどネトフリだと字幕あるので見やすい)。
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