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廓庵禪師『十牛圖』 第五圖~牧牛(ぼくぎゅう)

2023年のInstagram @tokujiro_official で投稿した”アスリートのコーチング”を加筆

廓庵禪師『十牛圖』
第五圖 牧牛(ぼくぎゅう)
前思纔起、後念相隨。 由覺故以成眞。 在迷故而爲妄。 不由境有、唯自心生。鼻索牢牽、不容擬議。
頌曰
鞭索時時不離身
恐伊縦歩惹埃塵
相將牧得純和也
羈鎖無拘自逐人
和     仝
甘分山林寄此身
有時亦踏馬蹄塵
不曾犯著人苗稼
來往空勞背上人
和     仝
牧來純熟自通身
雖在塵中不染塵
弄來却得蹉跎力
林下相逢笑殺人

鞭索時時不離身 恐伊縦歩惹埃塵

前思(ぜんし)纔(わずか)に起(お)これば、後念(ごねん)相(あ)い随(したが)う。覚(さとり)に由(よ)るが故(ゆえ)に以(もっ)て真(まこと)と成(な)り。迷(まよ)いに在(あ)るが故而(ゆえ)に妄(みだり)となる。境(きょう)に由(よ)って有(あ)るにあらず、ただ心(こころ)より生(しょう)ず。鼻索(びさく) 牢(つよ)く牽(ひい)て擬議(ぎぎ)を容(い)れざれ。
頌(しょう)曰(いわ)く
鞭索(べんさく)時時(じじ)身(み)を離(はな)れず。恐(おそ)らくは伊(かれ)が歩(あゆみ)を縦(ほしいま)にして埃塵(じんあい)に惹(ひ) かれんことを。相(あ)い將(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんな)せり。羈鎖(きき)拘(こう)すること無(な)きも自(みずか)ら人(ひと)を逐(お)う。
和する     第一に仝じ
甘(あま)んじて山林(さんりん)を分(ぶん)として此(こ)の身(み)を寄(よ)せ。有(あ)る時(とき)は亦(ま)た馬蹄(ばてい)の塵(ちり)を踏(ふ)む。不曾(かつ)て人(ひと)の苗稼(かびょう)を犯著(ぼんじゃく)す。来往(らいおう)空(むな)しく背上(せじょう)の人(ひと)を勞(ろう)す。
和する     第一に仝じ
牧(ぼく)し来(きた)って純熟(じゅんじゅく)し、自(みずか)ら通身(つうしん)すれば。塵中(じんちゅう)に在(あり)と雖(いえ)ども塵(ちり)に染(そま)らず。弄(ろう)し来(きた)って、却(かえ)って蹉跎(さだ)の力(ちから)を得て。林下(りんげ)に相(あ)い逢(お)ふて人(ひと)を笑い殺す。

鞭索(べんさく)時時(じじ)身(み)を離(はな)れず。恐(おそ)らくは伊(かれ)が歩(あゆみ)を縦(ほしいま)にして埃塵(じんあい)に惹(ひ) かれんことを。

纔かでも思念が起こると、忽ち諸念が現れ出る。事実を事実と知るからこそ真実と成るのに、真実が分からないから妄想・妄念・妄覚となる。人や物が有るから念が生ずるのではなく、ただ心を動かすから顕れる。即今底をしっかり護って詮索しないことだ。
讃える
鞭も綱も手放すことはまだできないだろう。
牛は勝手に動き回り、埃や塵にまみれてしまう。
隣に寄り添って共に暮らすことで、やがては温和になるだろう。
そうすれば手綱を握っていなくても、牛は後をついてくるようになる。
和する   第一に同じ
牛は山林を自らの居場所と思い込んでしまい、満足して身を任せているが、時には人が多い街に出て紅塵の巷に入ることもあるだろう。およそ他の家の畑を荒らすようなことは絶対にないが、行くにしても来るにしても、背上の人のお世話になることはない。 

『自分の心』を通して『ものごと』を観察している

自分勝手な考えや悩みが一度でも生じてしまうと、そこからいろいろな事案や思いが次から次と浮び溢れ出てしまう。二つある目で見たものを一つの眼で見たまま、二つの耳で聞こえたことを一つの耳で聴いたままに受けとめることは難しい。ものごとと世の中がさまざまに見えるということは『自分の心』を通して『ものごと』を観察しているからである。
 
廓庵禪師『十牛圖』~人は大きく、己は小さく(氣心腹人己)
「とんちで有名な一休宗純は、ある時『菩薩行とはなにか?』と篤信から聞かれたことがあった。一休宗純はすぐさま筆をとって『腹はたてず、心は丸く、気は長く、人は大きく、己は小さく。』と書にした。」という逸話から、腹を立てない・心を常に怒りで満たさない・気長に待つ・自身は縁の下の力持ちになる・クライアントを大きくする『忍辱』が大切とういうことをApple創業者の故人に僕は伝えた。
 
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