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信仰もそんなに悪いもんじゃないvol.4「アンビバレントな宗教2世」

信仰3世 元宗教家という視点からコラムを綴っています。今回は信仰を持つ家庭に生まれ、世間一般の”常識”との間で揺れる宗教2世について。


教祖という存在

宗教団体には基本的に開祖とされる中心的人物がいて、特に新興宗教の場合は教祖というような立場で存命の個人が指導者としての役割を担っていることが多いと思います。
これが外部から見ると特異なものに映るというか、ちょっと理解できない、受け入れ難い部分ではありますよね。

「何でただの人を神様みたいに崇めてるんだろう?おかしくない?何がそんなに偉いの?」

ここのところの疑問はなかなか拭えないというか、教祖の存在は宗教団体の内部と外部の「壁」そのものかも知れません。教祖というストーリーを受容できるかどうかで内と外が決定的に分かたれることになります。どちらが正しいとか間違ってるとか言うものではありませんが。
「教祖って何?」という疑問に答えるのは相当に難しいですし、一概に語れるものでもないでしょうから、このコラムでは触れません。
直接的に語ることは避けて、教祖という存在を巡る宗教2世の心情に着目してみます。

内と外

宗教団体の内側で育つ宗教2世にとって、教祖は生まれた時から”教祖”です。敬うべき存在として教えられて、よほど家族間の衝突が無ければ特別何の違和感もなくそれを受け入れます。もちろん人によって程度の差はあるでしょうけれども、親を始め近しい人々が信仰者であれば、それと同じように教祖に対して敬意を払います。敬意を払う対象として教祖がいるということが特別なものでは無くなるという意味で、実際に何か具体的な尊敬の意を抱いているのとはちょっと違うのかも知れませんが、国家の象徴として天皇という存在があることを国民が皆知っているのと同じようなことです。

「それって洗脳…」みたいな話でもあるんですが、やっぱり子供というのは環境の中で育ちます。教祖という存在について何か特別にその意義だとか尊さを教え込むまでもなく、自然に”教え”のストーリーの内側で生きるようになります。
さながら鏡がその姿を映すように、親の持つ信仰が子供の中にも息づいていきます。こうして家族間で信仰が引き継がれていくことで安定的に信者数を伸ばしていこうというのが、一時期の新興宗教団体のスタンダードでした。

ところが、親の姿を映す鏡のようだった子供もやがて大きく成長し、自我が芽生えます。やがて親の庇護から離れて、外の世界を知り、そこに映し出される自分の姿を見て初めて自覚します。「 ━━何かおかしい。」
自分が慣れ親しんだ信仰の場と、社会通念の間にしばしば齟齬があって、その二律背反な状態に悩むことになります。いかに家族といえどやはり独立した個人ですから、親の持つ信仰をそのままに引き継ぐことなどできないわけで、自分自身でどこかのタイミングで何かしらの選択を迫られます。

このようにして宗教と社会の狭間に居て苦しむのがいわゆる”宗教2世”の描かれ方になっていますよね。そんな宗教2世たちが苦しむ信仰の内と外の境界を体現しているのが教祖という存在かと思います。

信仰者からみれば覚者、使者、指導者。
世間からみれば、ただの人。

自分はどちら側の人間か、選ぶ過程で苦しむ2世たち…という現状の認識に、ちょっと異論を唱えたい!というのが今回の主旨です。前置き長すぎですね(笑)

両側に立つ者としての2世たち

私は信仰を受け継いだ者ですが、まるっきり内側の原理だけで動く人間かというとそんなことはありません。かと言って、自身の信仰を捨てたから宗教家を辞めたとか、元ある信心が薄くなって今に至るとか、そんなことも全くありません。

「どっち側でも良いんじゃない?」
「どっちもアリじゃない?」
「どちらの感覚も大切にしたらいいんじゃない?」

そういうことを言えるのが、私たち"宗教2世"何じゃないかと思うのです。

教祖という存在について、「ただの人です」などと言ったら信仰者の人々は受け入れられないでしょう。場合によって、怒りだすかも知れません。
無宗教の人に教祖について「悟りの人です」など言ったらポカンとしてしまいますね。場合によって、変人と見られてしまいかねません。
そのどちらの気持ちもよく分かるのが、宗教2世です。

宗教2世たちが信仰と社会の狭間にいることを”問題”と捉えるのではなくて、”特性”として活かすことを考えたい。宗教2世であることのポジティブな側面を見出せるはずなんです。

信仰を知り、社会に触れ、互いに相容れない部分に苦しみつつも、双方の側に立って耳を傾け、何か新しいものを生み出す可能性として、宗教2世を捉え直してみたい。

「信仰が現代社会になじまないのだとしたら、現代においても存続し得る信仰とはどんな形のものだろう?」
「社会から嫌厭されがちな宗教だけど、信仰があればこその恩恵・メリットもたくさんある。その良い部分を社会に反映するにはどういうあり方があるだろう?」
「現代社会に欠けているものを、信仰の現場から持ってくることができるんじゃ無いだろうか?」

そういった意識で行動する時、宗教2世であることは”悩み”では無く”強み”になり得ると思うのです。

私がこういった思いに至ったきっかけとなったのが、私にとっての”教祖”という存在でした。

ちょっと長くなりそうなので、ここで一旦区切ります。次回は私の個人的なお話を中心に綴りながら、宗教2世の心情の変遷をたどってみます。

つづく。

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