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徳三宝

3月10日は大東亜戦争末期に東京大空襲という災難が訪れた日です。
東京大空襲では、11万人の人々が亡くなったそうです。

この空襲により、亡くなったと云われている徳三宝という人物を皆さんはご存知でしょうか?

鹿児島県徳之島出身の柔道家です。
大河ドラマ「いだてん」にも登場しましたし、小説「姿三四郎」のモデルとも言われているのでご存知の方も多いかと思います。

私は同性ということもあり子供の時分、
「徳です」と名乗ると、
「徳三宝を知ってるか?」
と地元鹿児島の方によく質問されました。

子供の頃、郷土の勉強ということで学校から支給された本を読み、彼の存在を知りました。
柔道に詳しくはありませんが、勝手ながらに尊敬しており、三宝先生と呼ばせていただきます。

生い立ちについて

三宝先生は明治20年生まれ。
柔道の素質を認められ、徳之島から鹿児島、鹿児島から東京へと渡って柔道家として大成していきます。
柔道の名門、講道館に入り、その名声をほしいままにしました。
明治43年の三船久蔵との試合は伝説となっています。
順風満帆に思えた三宝先生ですが、ある日、講道館にやってきたブラジル人の水夫達と喧嘩沙汰となり、外交問題に発展。
それが理由で講道館を破門されます。
全国を行脚し柔道の道を模索し続け、6年後に講道館の許しを得て戻ってきます。
その後、早稲田大学などの柔道師範となり、江戸川区小松川に居を構え、自宅近くにも個人道場を開き、多くの弟子達を育てていきます。

在りし日のお姿

人柄について

本を読むと大変寡黙な方で、口数が少なかったとあります。
ですが、柔道に対する熱意は強く、朝から寝るまで柔道のことを考え、日に四、五十本の稽古を積んでいたそうです。
指導者となってからも、大学で教えて自宅に戻れば近所の道場で教えると、柔道への情熱は冷めることはありませんでした。

いくつかの写真を拝見し、私が感じたのは三宝先生の目です。
先生の目を見ると徳之島の方なんだなと感じます。
私もたまに言われますが、徳之島出身の方は目力が強いと思います。

そして、立派な体格と多くの門弟を抱え、世話好きだったことから西郷隆盛に似た人物なのではなかったかと推測しています。
いつか薩摩琵琶で三宝先生の琵琶歌を作りたいです。

先生の最後

江戸川区の平井に目黄不動として有名な、最勝寺というお寺があります。
ここに三宝先生の頌徳碑があります。
今から、10年ほど前に一度、私も参拝しました。

三宝先生は昭和20年3月10日、東京大空襲に見舞わられ亡くなりました。
空襲時に三宝先生を見た方々の証言によると、奥様と一緒に中川放水路へ逃げて、老人や子供達の世話をしていたそうです。
しかし、風に乗った烈火が放水路を取り囲み、辺りを焼き尽くしました。

翌11日、門弟達は必死に三宝先生と奥様を探しましたが、見つかりませんでした。

昭和33年、これまでの功績を称え、最勝寺の頌徳碑が建てられ、その隣には三宝先生と奥様のお墓もあります。

戦後、77年が経過しましたが、戦争による悲しみは消えることがありません。

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