食わず嫌いのミュージカル否定派がはじめてミュージカルを観に行ったら楽しかった話。 #純テロ
どーもどーも。
スーパー太っちょWebディレクターです。
スーパーは太っちょにかかります。
普段はてなブログを見てくれてる人こんにちは。
見てない、はじめましてな人もこんにちは。
だから結局みんなこんにちは。
先日、ひょんなことから「純血華劇派」という劇団をオススメされてミュージカルを観てきたんですけどね。でも、あのー、僕はミュージカル否定派なんですよね。いや、嫌いと言ってもいい。嫌いだった、か。
だから、まともにミュージカルを見たこともなかったし、「舞台演劇」という枠に広げても15年くらい前に一つか二つ観に行った程度で。
※ここから「ミュージカルの魅力」と「純血華劇派の魅力」、さらには「舞台演劇の魅力」をごっちゃにして展開するけど、お許しください。だって初めて見に行ったから、これしか知らんからw
ミュージカルって意味不明だよね(超失礼)
嫌いな理由は皆さんが想像する、たぶんそれだと思います。たぶんそれ。合ってるか知らんけど、たぶんそれ。
「なんでとつぜん歌い出すのん?え、なに?どしたん?」
僕は、割とコンテンツ(映画やドラマ、物語)にリアリティというか"つじつま"を求めるタイプでして。え、そんな、だってさっきああ言ってたのになんで今こうなるんだよ、おかしいだろ、と。
だから映画やドラマでも、脚本が薄っぺらすぎて「物語をこう進めたいから、登場人物にそう言わせてるだけ」のドラマとか、だいぶ嫌いなんよ。えー、おまえ、そこでそれを言っちゃあよ、性格として無理が生じるでしょうよ、みたいな。
なので、ミュージカルのあのとつぜん歌い出すとか、おい!どうした!だいじょうぶか!気をたしかにやで!とりあえずまずもちつけ!ちがう!餅はつくな!おちつけ!とか思ってしまう。
結論から言うと、その違和感は最後まで拭いきれなかった。
でも、それでも観劇?する間に「ああ、これはこういうものなのだろうな」「これはこれで、楽しいのかもしれない」と思い始めて、最後には「うわぁ、すごいものを見た🥺🥺🥺」と思いました。
コンテンツには、"見方"がある
と、思っている。
それは、以前に書いたこの記事でも言及してる通り。
つまり、僕は知らなかったし、いまだって1作品しか見てないので知らない方だと思うが、とにかくミュージカルにはミュージカルの見方があるのだろうと、思う。
それは逆に言えば、作品との、もしくは作り手や演者とのコミュニケーションだとも思っていて。これはどういう見方をするのだろう?作り手や演者はこちらになにを伝えたくて、そういう演技や演出になっているのだろう?と。
なおいえば、そういうスタンスを持たずに、相手の意図も理解しないで「こんなのはダメだ」と言ってしまうのは先入観のみで生きている人であり、コンテンツの作り手に失礼だなぁとも思うんですよね。
やっぱり突然はじまる歌唱にビビる
キター!!!
歌やで!
きたでコレ!!!
と思ったのもほんの少しの間で。
それはすぐにおさまった。
なぜなら、演者さんの歌がめちゃくちゃ上手かったから。
いや、このフレーズのなんと陳腐なことか。
僕はですねぇ、ミュージカルの歌唱というのは、なんというか「それ専用の歌唱」だと思ってたんですよ。なんていうか、そのー、おとーーうさんおとうさん!みたいな、ビバルティ春みたいな(ちがいますシューベルト魔王です)。
あそうそう、山崎育三郎さんがときどき歌ってる姿みますが、ああいう感じ?めちゃ上手いと思うけど、やっぱりミュージカル調な感じで、ポップスとかとはあんまり合わない・・・?いや、僕自身がそういう好みなだけですけどね。
あの歌い方もきっとミュージカルではとっても良いんだろうなぁと、思っていて。でも、音楽として聴くとすると、僕はあんまりその・・・という(ファンの方ごめんなさい)。
※いや、あれもやっぱりだからミュージカルで聞くと圧倒的なのかもしれませんね
で、今回の純血華劇派のミュージカルですね。
ウマー( ゚д゚)
とも思ったんですけど、それだけじゃなくて。
なんというか、そう、言葉にすると
( ゚д゚)ウッヒョエェエエエエエエ
となって。(言葉にしてない)
声がとっても良くて、うっそー、ええ?こんなの普通にポップス歌わせてもすげぇいいじゃん、なんやー、ずっと聞いてたいわー、って思うほどに。
しかも、それが、生歌という。
うええええ、ウンマーグンマー!って思って。グンマーいらないけど。
「ああ、そういうことなのかな?」
と思いました。
あくまで僕の捉え方なのだけど、要するに「演劇(ドラマ)」とそのなかで流れる「劇中歌」を、両方とも生(演技&演奏)でやってしまおう、というそういうことなのかなと。すげー雑に言ってしまえばドラマの中で流れる劇中歌を米津玄師がその場で歌うシーンがある、みたいな。
いや、ドラマのリアリティからするとなんで突然、物語に無関係の米津玄師が出てくるんだよと思うし、しかもミュージカルの場合は演者本人がとつぜん歌い出すわけで、なお変な話。
だけど、発想としてはそういうことではなくて、「演劇」も「歌(や音楽)」も一つの舞台で両方楽しみたいという、そういう贅沢思想から来てるのかなと思って。その贅沢思想を、何とかして芸術として一つにまとめたのがミュージカルなのか?みたいな。
まあ、変と言えば変なんだけど、そういう意味では、どう考えても例えとして不適切な気がしてならないが、ラーメンライスだってそうだよなと。
炭水化物をおかずに炭水化物を食うってなんだよっていう。さらにこの場合どっちがおかずなんだよっていう。どう考えても例えとして不適切な気がする。
でもまあ、たしかに世の中には「それとそれを無理やり合わせたらアカンやろ」みたいなもので、成立しているものもある。ミュージカルもそういうものなのかな?と思ったんですよ。
何で思ったかというと、改めてもう一度出すけど、演者さんの歌が素晴らしかったから。そうか、これは、たしかに聞きたいかもしれない。しかも生歌で。同じ空間で。そこで聞いてこそ迫力がわかる。
もうほんと皆さん上手くて、いやだから上手いだけじゃなくて声が良くてすごかったのだが、たしか一番最初にソロとして歌ったのはこの方だったような?
その(役)名をメレブ・・・じゃない、メカブじゃなくて、カヤブだそうカヤブ。冗談で言ってるんじゃなくて、実は何度も間違えた。うおおメレブ〜!ちがうメカブ・・・あ、カヤブよそうカヤブって。
こんなね、Jリーグの下部組織にいそうな顔してね、シュッとしながら歌うめぇの。声ふるわすの。ちがう、震わせたのはワイの心。ソロで歌い出したら、もうね
えええええええ🥺
泣クヤン🥺
ってなった。おっさんなのに。ワイ太ったおっさんなのに。
もちろん他の演者さんもそれぞれ良かった。CDをくださいと思った。しかしワイのおうちにはCDを再生する機器がないのでいりません。
同じ空間に演じている人がいる迫力たるや
いや、たぶん舞台演劇を観なれている人なら、何を当たり前のことをと思うのだろうけど、うるせぇワイがそう思ったからいいんだよ(投げやり)。
これは小劇場だったのも良かったのだと思う。
川崎ラゾーナの中のラゾーナでやってたんだけど(語彙力)、100人で満席になるようなところで、弊社(どこだよ)なら「ちょいとUX系のワークショップにでも使う?」ぐらいの広さだった。
だから、もう、そんな狭いスペースに観客も演者もいて、呼吸すら聞こえそうな。っていうか、観客席の目の前に来て歌ったり踊ったりすることもあって、うおおおお、近い、近いよぉおおおおおおとなった。すげぇなーと。
僕はドラマ大好きだし、映画もまあまあ観てる方だと思うのだけど、だからこそこの「同じ空間に演じている人がいる」というのは、逆にとても衝撃だった。
うお、そこに、動いてる人がおるよ!演じてるその人は、なんちゅーか、もうその人やん!みたいなね。なにを言ってるんだ?って今自分で思ってるからこれ読んでる人は心配しないでいいです。ワイ、だいじょーぶ、生きてる。それなりにお仕事もしておる(誰も聞いてねぇけど)。明日は忘年会である。それはさすがにどうでもいい話だった。
なんというか、すぐそこに、本当に(その役の)その人がいて、呼吸をしていて、つまり生命活動をなされておりまして。ほんとに実在するのか?もしかして、本当にここは月なのか?ムーンのリバーなのか?リバーサイドハイツとかあるのではないか?と思ってしまうほどで。
これはミュージカルに限らず、舞台演劇というものがそうなのだろうけど、目の前でその人が演じている、声を発している、というのは物語に入り込む要素としてはすごいことなのだと思う。我ながら語彙力が足りない。
だって、まあ言うなれば、青島刑事や室井管理官がそこにいるようなもんで。すげー、と思った。
だからこそ感じる「演技力」
いや、素人なんで、演技力が高いとか低いとかよくわからんのだけど。(正確には、素人が「あの俳優、演技力無いよねw」とか軽々しく言うのどうかな、と思ってる)
とはいえ、そんな素人でもビックリするぐらい、うわー、うめー!と思って。いや、それも正確じゃないな。おそらく「上手い」なんて思わせた時点で負けなんだろうと思っていて。「本当にその人(役)がそこにいる」と思わせてナンボ、なのでしょう。
なにをそんな偉そうにと、ワイが思った。自分で。
でもね、ほんとにそう思ったんす。
あ、そこにおるな。アクバルがおるよ。アクバルが。アクバルってだれ?って思うかもしれないけど、そんなものは放置していく(ひどい)。
いや、物語の中心がね、月で人工的に生み出された子供たちでね。その主人公がアクバルなんよ。この人っつうか、この少年ね。
もう、まごうことなき少年。
我々が思い描く少年。少年より少年(謎)
ん?
おうそうだな。
たぶんアクバルはカブトムシ好きだよ。
月にカブトムシいるのか知らねぇけど。
かぶとむしゃー!みたいのはいるかもしれない。そしたらたぶんそれは好き。かぶとむしゃー!たぶん好き。アクバルそういう少年。たぶんかたつむりゃー!も好き。
ワテクシはね、いい大人だから。アクバル(の中の人)は本当は地球人で、地球で生活をしているのであろうことは容易に想像がつくわけですよ。だからね、ああ、この方はいつも少年役とか男性役をやっているのかな?と思っていたわけです。
だが、終演後にアクバル役の方のSNSをみたら、
お、
ちょ・・・
ガチガチの女子やんけ
となった。
いや、こんなコスプレ投稿じゃなくても、
こんな普通のおねえさんな投稿もアーリマーシテ。
ええええ、アクバル?アクバルじゃないの?アクバルだけどアクバルじゃなくてだけどアクバルです、そうですかわかりました。
ワテクシが警察官なら「ん・・・キミはなにを言っとるんだね。ちゃんと自分の写真を出しなさい。身分証を偽装してはイカン。お姉さんじゃなくて、そう、きみ、弟の君自身の身分証を出しなさい。ビックリマンチョコあげるから。うん」とか言う。
いや、もちろんね、いまドラマに出てる俳優さんたちだってこれぐらい「変化(へんげ)」はしてるのだと思う。だが、それが見出しで書いた「だからこそ感じる演技力」で。同じ空間にいるからこその「そこに、アクバルがいる」と思わせる演技力。脱帽。帽子かぶってねぇけど脱帽。何ならそのために帽子かぶります。
そういう意味では、賀来賢人みたいな方もいて、
おお・・・賀来賢人や・・・あ、ちがう、賀来賢人じゃない。ネプチューンだよ(役名)。ネプチューンていうとおっさんはすぐこの人を思い浮かべてしまうのだけど。
ん?いや、でも賀来賢人か賀来賢人に非常に近いレベルの男子では・・・?("純血華劇派"は女性のみの劇団なので男性は絶対にいない)
と思うほどには、すごい演技だった。えー、そうかやっぱり女性なのかー!みたいな。
(まあこれは、宝塚とかもそうなのだろうけど)
また、それとは逆の方向で、ん・・・市川由衣さん?がおるね?
いや市川由衣さんではないのだけども。
しかし、ものっすご目の前で歌って踊って演じてる姿を見ていると、あれ?市川由衣・・・?あ、違うか。ん・・・?やっぱり市川由衣・・・?あ、違う違う。と何度もなった。まあそもそも実物の市川由衣さんを見たことがないので判別のしようがないのだけど。
ただ、そのレベルで「キュートな女の子」を劇中で演じられる人もおるのねー、そもそもみんなキュートなオナゴさんたちが集まってる劇団なのに、とか思ったりもしました(これは演技力とはまた違うものかもしれないけどw)
無駄なように見えて無駄じゃない演技
これはねえ、だからそういうことなんすよ。なにがだ。
最初、ちょっと声が聞き取りづらいシーンがあったのですよ。で、僕はミュージカルに慣れていないので「そういうもんなのかな?」と思ってた。だけど、すぐにそれも慣れてきたのか、聞こえるようになった。
(これは、演者さんが最初の方まだエンジンがかかってなかっただけ、なのかもしれない)
ただ、「聞き取りやすいセリフ」と「聞き取りづらいセリフ」の違いがわかるようになってきた。というと難しい話に聞こえるが、実態は単純なもんで。演者さんがこちらに背を向けているときのセリフは聞き取りづらい(ときがある)。それ以外はぜんぶ聞き取りやすい。
よくよく考えればこんなのは当たり前のことで、こちらに背を向けているのに声が鮮明に聞こえるとしたら怒鳴ってるのと同じレベルで。いや、それでも普通は聞こえないかもしれない。つまり「声」が「こっち」に向かって投げられてないのだから、そりゃ難しい。
※あと、小劇場ゆえの「マイクを通さない」というのもあるのかもしれない。それはそれでとても良いと思う。
そうやって見ていると、(おそらく)声の方向を意識してセリフを発しているのでは?と思うようになった。舞台の下方向に向かって響くように出したり、ちょっとぐらい不自然でも観客席の方を向いて出したり、そのために首をよく動かしていたり。
そう「ちょっと不自然」な動きが、実はとても多かった。
しかし、そうかこれが大事なんだなと、観ていて思いました。
ちょっと大袈裟な仕草だったり、「普通、人はそんなあからさまな動きはせんよな」みたいな動きをしたり。だけど、それが「コンテンツには、"見方"がある」で書いた"演者はこちらになにを伝えたくて、そういう演技や演出になっているのだろう?"で。
「いま、この人物(キャラクター)はこう思ってるんですよ」ということ伝えるために、そういう仕草があるのだろうなぁと思いました。
で、これはTVや映画などの「特定のシーンのみを大きく映し出す」ではなく「舞台」という限定かつ、距離のある装置が現場だからそうなのだろうと、観ながら理解をしていったわけでして。
つまり、TVや映画なら「寄る」ことができる。そのシーンを近寄ってカメラに映せば良いから。しかし舞台はそうはいかない。だから、(画面より)はるかに遠いところから観ている観客にも伝わるように、仕草を表現しなきゃいけない。
それゆえに、舞台役者がドラマなど「画面メディア」にくると「演技がクサい」と言われるのだろうなと思いましたw
だが、だからこそこれはとても良い機能があるのだなと思って。
たとえば、舞台の左端で何かが起きているとき。
TVドラマは、そこのシーンを画面に映す。すると、(舞台で言う)右端の方は画面には映らない。映らないのだから、なにをしていても伝わらない。一流の役者は、画面に映ってないところでも演技をしているというけれども、とにかく映ってないものは映ってない。直接的には、視聴者にはなにも伝わらない。見えないのだから。
舞台は、そうじゃないんだなと思いました。
左端で何か事件が起きていても、右端にいる人物たちにもそれぞれ、感じたこと、それによる反応がある。それをおざなりにしていると、右端の方に近い観客は、それに気づいてしまう。物語から距離ができてしまったり、冷めてしまう。
でね、だから演技してるんですよ、純血華劇派の右端の人。
いや、たまたまそのとき右端だっただけだけど。
うわーすごい、と思ったんよ。
舞台の左端で起きていることに対して、反対の右端にいる人は「ふむふむ?」とか「おお?」みたいな演技をしてるわけです。すげぇ、こっちにも見所あるやん、って思ったわけでして。なんちゅーか、メインとスピンオフを両方同時に、多種カメラで見れるみたいな。サッカーでいうとピッチ全体と、ハゲ・・・じゃなかったイニエスタカメラの両方を見れるみたいな。なるほどなー!!!と思いましたの。
舞台全体を空間として見ることができて、言うなればドラマを3Dカメラで全部おさえていて、自分はその位置からどっちの動きも見れる、みたいな。となると、思ったことがあって。
そうならば、これは座る位置によって見えるものが違うので、何度も観る動機になるな、と。これはすげぇなぁと思いました。
そしてこれがまた、純血華劇派のえんj・・・いやもう演者とは言いたくない。純血華劇派というスター養成所から出てきたムーンチャイルドとその周りの人たちが、縦横無尽にラゾーナのラゾーナで(だからなんだそれは)動き回るもんで、ダイナミズムが半端なかったのであります。
もうそれが行き過ぎて、劇中の途中で楽器を演奏するシーンがあるのだけど、「おまえたち、それが、これだぜ!」ともったいぶって風呂敷みたいなものをバッ!として楽器を出す。
ワイ「おい!楽器じゃないか。ワイも知ってるで!楽器、なんだ楽器、そこにいたのか久しぶりだなぁ」
とか思ったぐらいで。当たり前のものも、月に来ると違うんだぜ。
ってそうじゃなかった。舞台で演技をするというのは、そういう迫力があり、それは、舞台の隅々まで配慮した全員の演技があるから成り立つんだろうなと思ったのであります。我ながらいいこと言った気がする。
メッセージを探る楽しさ
たぶんだけど、これは「超有名ではない物語」を観る楽しさなのだと思う。だからちょっと失礼かもしれないw
いや、とにかく、オリジナルの脚本なので、わからない。わからないことが非常に多い。
これは前段の「無駄なように見えて無駄じゃない演技」と密接に繋がることなのだけど。
まず、「純血華劇派」という劇団が前述の通り「全員女性の劇団」なのであるからにして、当たり前だが舞台に立っている人は全員女性で。だが、役としては男性もいるわけで。女性が男性を演じることに何の違和感もないが、だが、「よしわかった、おまいは男性役やな?」と見極める必要がある。じゃないとわからないから。物語が。
だけど、それもよく見てると、キャラクターそれぞれにメッセージが出されていて、よく見るとだいたいわかる。
たとえば、(おそらく)ショートカットは男性や少年の象徴として設定されていて、だけど、ショートカットの女の子(役)もいる。
同時に、パンツ(ズボン)はだいたい少年だったり、男性だったりする。もちろん、喋り方や声色もある。
そういうことを複合的に見て判断するのだけど、それは「複合」という言葉通りの難しいものではなく、「これは少年だよ」という記号のようなものを仕込ませているようで。
ああ、そうか、こういうことも観て感じながら、自分で答え合わせをしながら観ていくのだな?と思うと、それはそれで面白かった。
スタート時点では皆目わからないものも、ちゃんと見ていればわかっていく、相互のコミュニケーションが成立していく楽しさ、というか。
そういう意味では、パンフレットに全配役や人物紹介が書かれていたり、そもそも公式ホームページにも書かれていて、最初「ああ!これは!事前にすべてのキャラクターを予習して覚えておくべきやつか!」と思ったけど、そんなことはない。
だいたい、新任教師じゃあるまいし20人以上いるキャラクターを覚えていけるかっつう話で、覚えてきなさいと言われてもワイは断ります(何様だ)
だので、それを少しずつ探る楽しさ・・・というよりは、演者である彼女たちが発するメッセージをキャッチする楽しさ、と言った方が良いかもしれない。
そういう意味では、ミュージカルを含む舞台演劇というのは演者だけでなく観客も含めて、その場にいる全員で(その日の)物語を創り上げていくものなのかもしれない。そして僕が感じた楽しさは、それなのだろうとも、思う。
ただ、小劇場だったからなのか、純血華劇派がそういう劇団かつスタンスなのかはわからないけど、密にそれが感じられる舞台だったのは、とても僕にとっては良かったなぁと思います。なんせ、食わず嫌いミュージカル否定派ですからね・・・w
だが、とかいってですね、このゾーンA管理官のユーラナスがですねぇ
ほーう、やはりイケてる頭脳優秀系の美人は違うのである。
透けているように見えるiPadもどきも、もしかしたら透けていないのである。とか思って見ていたら、終盤の方で
「きみは、そんな男じゃないだろう!」
的なことを言われていて。
そう、おまいは!そんな男じゃない!!!
えっ(@_@)
男じゃないっていうか、男だったん!(゚ω゚)ガーン
となった。
(そういえばパンツルックだった)
油断も隙もならないが、それがいい、というか面白かった。
圧倒されたパフォーマンス
という、それらを踏まえて、あらためて言いたいのはだから「圧倒的なパフォーマンス」。いや、もしかすると(僕は他を知らないので)ダンスなり歌なり演技なり、TVで取り上げられるような超一流と比べると、未発達な部分があるのかもしれない。
「未発達な部分があった」と言いたいのではなくで、僕は他のパフォーマンスレベルを知らないので、知らない者が安易に「どれもすばらしいパフォーマンスだった」と言ってしまうのは、違うと思っていて。発言に責任を持っていない。
しかしこれだけは言えるのは、あの小さな箱において、人々を魅了するだけの圧倒的かつ総合的なパフォーマンスは、そこに、純血華劇派の演じるものにあった、と僕は思いました。少なくとも僕はそれを受けて、うおお、すげぇと思ったのでありまして。
いやそれはね、たとえば、ハアブというかつまりその月で生まれた子たちを管理する君主たる「サターン」とかね
もうね、一周まわってくっせぇ演技をするわけですよ。
デヴィ夫人かサターン様かっていうぐらい、あーらあなたたち、みたいな。そのうち「やい仮面ライダー!」とか言い出すのではないかというぐらいの、そういう、ああ、こういう人なのねと一発でわかる演技(あれが素をいかしたものなのか、完全に演技によるものなのか気になる・・・)。
それでいえば、双子の女神と言われる女神なのかそうじゃないのか、いや女神なんだけどという二人も(この写真の両脇にいる黄色と青の二人)
どっかで観たというか、いいえFFのIVかVにいたんですけど。いた。絶対にいた。いなかったかもしれないが、いたことにする。それぐらいにはいた。
むしろ、こんな感じなら絶対にいた。
ぜったいに二人同時に倒さなきゃいけないやつ。
そうしないと左が右を再生するやつ。
もしくは「かみ」という名前でいた気もする。
「これも いきもののサガ か」とか言っていた。
いや、物語の中でも(ある意味では)キーを握るというか、すごく重い使命を持った二人で、それが切なかったりする。・・・というのを、出番としてはムーンチャイルドたるド主演クラスからすると少なめだったとしても、背後できっちり、ときにダンスでひっぱり、と、物語も舞台も支えていたりして、おーそうなのかー、と没頭する鍵となったりした。(僕にとって、だけど)
そして、葛藤の葛藤たる美しさを感じたのが、摩耶さんでありましてねぇ(ましてねぇ、て)。
あれは、果たして悪者だったの・・・?
一概に悪者とは言えないのでは?
と思ったり。
そこに愛はあったわけだし。
とはいえママなの?姉さんなの?という疑問に最後まで終止符は打たれなかったわけだけど(言っておきますがめちゃくちゃどうでもいい疑問です。そしてたぶんお姉さんだと思います)。
しかし、その堂々たる演技に、だからこそええ?!そうなん?ママだったの?って思ったし。ちがうけど。ママかどうかじゃないけど。あと突然にピアノ弾き出した時はさすがに、お・・・ちょ・・・なんなん・・・って思ったのだけは言っておきたい(他の役は、一応楽器を弾く合理的な流れがあった)。
まああとはね、こんな人物もいたりね。
もうちょっと他に墜落するところはなかったのかという。いや、これがまたイケメンで(女性だけど)、物語の良いところをかっさらっていくのです。かっこいい。
っていう流れでいくと全員触れずにはいられなくなるので(みなさんよかったですよ。すごかった。ゼウスのAI感すぎる全能感とか、アクエリアスの天パ具合とかサジルのガチ少年感とか、みんな)、最後に一人だけ触れておきたい。のであります。
イシュチェルですね。当たり前だけど役名の方だけど。主人公アクバルのガールフレンド(っていう表現が一番近いと思う)。
なんか、ぎゅーって顔してるけど、劇中ではこんな表情一度もしてなかったと思うw
そゆ意味ではこちら↓の方が劇中・・・つまりイシュチェル本人?に近いかも。
ご本人のキャラなのか、イシュチェルという役柄なのかわからないけど・・・いや、その言い方は良くない。
イシュチェルという人は、劇中とても物静かな人で。いや、叫ぶこともあったけども。主人公の少年たるアクバル。厨二病におかされているか、もしくはこれから必ずおかされる予定のアクバルが"動"ならば、ヒロインたるイシュチェルは圧倒的な"静"で。
"動"と"静"というのは両者がいて成り立つもので、両者が互いに引き合い、光らせ合う存在なのだけど、ことこの物語においては、"静"であるイシュチェルがいかに(色んな意味で)その場にとどまることでアクバルの"動"を際立たせるか。実はとても難しい役回りだと思った。
さらにそれがドラマや映画などの「切り取られた画面」ではなく「空間」として「そこに存在しなければならない(しかし、"静"としては存在感を強烈に発揮するのは違う)」となると、これはものすごく難しいことをやってるのでは?と思ったりもしたわけでして。
そのイシュチェルの堂々たる振る舞いが、さらにギターを持たせて歌を歌わせると、その歌唱力たるや、ぬおおおおおお、なんだ、すげぇ。"静かな力"で場を虜にするんかよ、と思いました。ビジュアル的なことはもちろんとして、その立ち居振る舞い、歌唱力において、「美しさ」が表現されていた、すごいものを見たなと思いました。
初めて見たミュージカルが純血華劇派で良かった、と、きっと思う
「きっと」とつけたのは、まだ他に見てないからw
いや、そりゃね、つけない方が良いんでしょうけど。
しかし、他作品、他劇団を見てもいないのに「最初に見て良かった」というのはそれはそれでおかしい。バーミヤンも、ミシュランとった中華も食べたことないくせに、初めて行った町中華を「初めての中華がここで良かった」と断言するようなもので。(純血華劇派が「町中華」だと言ってるわけじゃなく。ただの例え話)
だから、「きっと」。
世の中に娯楽はたくさんあり、そもそもぼくはサッカーファンであって。だから、これからどれだけミュージカルを見るのかわからないけど、たぶん、きっと、そうなのだろうなと。
でも、確信に近いものがあって。
純血華劇派に圧倒的なものを見せてもらったのもあるのだけど、その圧倒的なものを「小劇場」で見れたのも大きいと思っていてね。
僕はサッカーファンなのだけど、
と、よく話していて。
それと同じか、それ以上のことを体験させてもらったんだよな、と思っています。
だから、「きっと」なのです。
だけど、確信もしているのです。
これを読んでくれた人も、ミュージカルに限らず、食わず嫌いをせずに何かを体験してみてはどうでしょうか。僕みたいに、こうやってアホほど長文をnoteにかけるかもしれない。
そんなことしたいわけじゃないだろうけど。
P.S.
劇団の名前は「純血華劇派」で。
ほほぅ〜、そうなのね?純粋たる純血でありながら、いやだからこそ、華劇派なんや。過激で華劇なんやな?おk。ワイわかっとるで。カゲキで華劇なおまいさんたちが、女子の本気集団である純血華劇派なんやな。おk。
と思ってたら、エンディング(カーテンコール)で主演のアクバルが、
「これからも、ジュンケツテロリズムをよろしくお願いします!」
テロリズムだった。
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