【相笠の女#1】時間に追われる男

相笠の女「あらすじ」


誰でも一度は人生に行き詰まり、毎日不安や悩みを抱えて生きている。自分にとって深刻な悩みほど、近しい人には打ち明けられないもの。そんなドツボにハマっていく日常に不意に現れる怪しい女。にわか雨とともにやってきて、なぜか相笠を強要してくるそのお節介な女には、不思議と逆らえないパワーがある。浄化の雨が降る束の間に、相笠の下で繰り広げられる無理やり人生相談アワー。信頼関係など必要ない行きずりの相手だからこそ本音が言えることもある。そして意外にも誰ぞも知らぬ赤の他人の言葉で人生の光りが見いだせることもある。今を藻掻き苦しむあらゆる世代の現代人に贈るありがた迷惑短編ストーリー。全5話


本編「第1話」時間に追われる男

そう、それは、にわか雨とともにやってくる。
「だから傘を忘れちゃいけないよ」
街であの鮮やかな花柄の傘を見つけたら、あの女かもしれないからね。


早く戻らないと、またどんな嫌味を言われるか。

最寄りの駅へと向かう途中、どんよりした雲が突然現れた。

雨がパラパラと優しく降りだす。

まいったな、今日は撥水加工のスーツじゃないのに。
ここから近くの駅まで急ぎ足でも5分はかかる。

雨のスピードが増し、落ちる雫がジャケットに一粒一粒滲んでゆく。

コンビニでビニール傘を買うべきか。
またチラリと時計に目をやる。
急がないとヤバい。

書類が濡れないようにリーフケースを抱えて小走りに駅へと向かう。
チカチカしていた青信号が赤信号に変わる瞬間に横断歩道に辿り着く。

俺はいつだってそうさ。信号までも俺を嘲笑う。

赤信号を睨みつけ、頭の中で足踏みをする。
俺の威嚇に雨も本気になったみたいだ。
やっぱり降参してコンビニに行っときゃ良かった。

地面に吸い込まれていた液体が弾けだす。
雨宿りする時間なんて俺にはないんだよ。

腕時計を睨みつける。
ゆっくりと進んでいく秒針が俺を更に苛立たせた。

今日もツイてない。
いや、俺の人生でツイてる日なんてあっただろうか。
どこまで記憶を遡っても思い出せずにいたとき
旋毛を濡らす感覚が止まった。

「お客さん、どこまで?」

突然、低音ボイスが耳元で響いた。
驚きのあまり即座に身体が反応し、声の主の方へ振り返る。

年齢不詳の女が俺の頭上に花柄の傘を差していた。

「だから、お客さん、どこまで?」

とっさに周囲を見渡す。

黄色い歯を剥き出し、不気味な笑顔で俺を見つめる女。

知り合いの女か、取引先の女か
もう一度、まじまじと女の顔を見る。

オシャレとは無関係な、ゆるいボサボサの髪には白髪が数本交り、ブカブカのパンツは、黒なのに染みが浮かんで見える。

相当年季が入っていそうだ。

よく見ると笑顔の口元には牛乳ひげが生えている。

まったく思い当たる節はない、だいたいこんなに強烈な風貌の女なら
忘れるはずがない。

「あんただよ、あんたしかいないでしょ、濡れた仔羊は」

今度は黄色い歯と歯の隙間から虫歯が見えた。

女は鼻で笑った。

子犬ならまだしもなぜ仔羊なんだ。

周囲を見渡すと信号待ちの同志たちは皆、傘を差していた。

「今朝は天気予報を見る余裕がなかったのかい?」

俺を見つめて女が言った。

無視することもできたはずだが、なぜかこの女には抵抗できない不思議なパワーを感じた。

「どこまで行くんだい?」

「あ、近くの駅まで」

「じゃあ、乗ってきな」

「え?」

辺りを見回すが、駐車している車など一台も見当たらない。

「家までは超過料金が発生するけどね、駅までぐらいはサービスしておくよ。ほら、青になっちまった。急ぎな」

躊躇する間を与えず、女は俺のスーツの袖を引っ張り
無理やり相笠のまま信号を渡った。

ヤバイ女の強引な勧誘か、新手の詐欺か。

横目で辺りを見渡すと、猛獣使いに操られる小動物を憐れむ目とサーカスショーのスタートに好奇心いっぱいの目が入り交じっていた。

さっきの苛立ちが一気に消えて、羞恥心が襲ってきた。

信号を渡り切ったとき、やっと言葉が絞り出せた。

「あ、あの、結構です。急いでるんで走って行きます」

耳が遠いのか、聞こえている素振りはなく女はスタスタと歩く。

こんな怪しい女を詐欺扱いしたら後でやっかいなことになりそうだ。
どんなにぼったくっても1000円がいいとこだろう。後で面倒になるよりマシか。

上司のパワハラをも超えるような中年お節介エネルギーに巻き込まれていく。

この戦は長期戦になることを覚悟し、猛獣使いの言いなりになることにした。

「あのう、じゃあ、お言葉に甘えて」

職業柄なのか、大人になったからなのか、何の抵抗もなく心とは裏腹の言葉が口から滑る。女は沈黙のまま、ひたすら歩く。

「あの、僕、傘持ちます」

有難迷惑の詐欺現場ではなく、人生の先輩を敬うという社会構図を仮作し、世間体を繕う。

「あ、そう、ハイ、バトンタッチ」

聞こえてたんなら、放っておいてくれ。勝手に傘に入れて金を取るなんて、図々しいにもほどがある。こんなに失礼な人間に今まで出会ったことがない。こんな惨事があるなら、本当にコンビニに行っておけばよかった。

今回は心底そう思った。

仕方なく女から受け取った花柄の傘は結構な重みがあった。女は傘を持つ俺の腕をじっと見ていた。

奇妙な女だ。

数メートルあるいたところで、女は口を開いた。

「あんた、スーツも小奇麗に着こなしてるし、いい時計してるね」

チラリと横目で女の表情を確認した。
無表情な女の顔は俺の恐怖を駆り立てる。

いくらぼったくられるんだ。払わないと騒がれて警察沙汰になるかもしれない。無理やり傘を返してダッシュで駅まで逃げようか。

一抹の不安が頭を物凄い速度で回転する。

「そんなにピカピカした時計をしているのに、あんたの顔はちっとも輝いてないね」

この女の失礼は無礼にランクが上がった。

「ほら、空を見てごらんよ。灰色のどんよーりした空さ。あんたさ、ずーっとこの空みたいな顔してるよ。だいたい、空を見たのはいつぶりだい」

「言葉が出ない」という言葉さえ出てこなかった。

「私のような珍獣と喋るのも初めてかい?お坊ちゃん」

女は黄色い歯を見せ、高らかに笑った。
俺のひきつっている顔など、気にする様子もなく、奥底にある扉を打ち破ってこようとする。

「で、あんた何屋さん?」

この女に素性をさらしてもいいものか、メガネのズレを直す振りをして束の間の時間を稼ぐ。

「言いたくなきゃいいけどさ。あんたお堅い職業だね。公務員?」

「あ、いや、あのう」

「職種は」

「税金関係の仕事です」

偽りの設定が思いつかず、つい本当のことを言ってしまった。

「税務署?」

「まあ、そのう」

「で、税務調査が嫌なのかい」

この女のスピード間には到底太刀打ちできない。

「失礼ですけど、占い師さんとか、そうゆう能力を持ち主の方ですか」

「占う必要あるかい。あんたのしけた顔みりゃ誰だってすぐ分かるさ」

またしても「言葉が出ない」という言葉さえ出てこなかった。

「あんたは本当は優しい男だね。目を見りゃわかる。そんな死んだ魚みたいな目をしててもね」

急な女のギャップに心が揺らぐ。
女の横顔をそっと覗き込む。
恋が絶対に始まらないことを確信して安堵すると、何故か勝手に口が動いた。

「僕は中小企業の脱税担当なんです。辛いんですよ、不正行為を見つけたときが。まあ、それが仕事なんで仕方ないんですけど、浮かんでくるんです。その経営者の家族、社員とその家族の顔が。会ったこともなければ、どんな人かもわからないのに」

暗闇の寝室から男と女が争う声が聞こえる。

聞き覚えのある声。

不安、恐れ、怒り、絶望、焦り。

金に支配され、豹変した大人たちの心の叫び。

ぎゅっと胸が締め付けられたあの夜。

朝になるといつものように父は食卓で新聞を広げ、母は家族全員分の味噌汁をよそっていた。

何度も襲うあの夜の暗闇が、今でも俺につきまとう。

「うちの親父も小さな会社を営んでいて。俺が中学の頃、親父はある大手企業の計略に騙されて大きな借金をつくったことがあったんです。専業主婦だったお袋も家計を助けるためにパートの仕事を始めて、親父は金を借りるために親戚に頭下げて回って。結果、なんとか会社を存続させることができたんですけど、あの頃は両親も毎晩喧嘩ばかりで家族が崩壊寸前でした。そんな両親を見て、俺は金に振り回される生き方は御免だと思って公務員になったけど、今でもあの時のこと、思い出しちゃうんですよね」

不本意にも行きずりの怪しい女に素直に弱音を吐いてしまった。一度吐いてしまうとどんどん心が緩んでいく。

「金ってなんなんすかね。金のために働いて、金に追われて、みんな金に人生狂わされていく。金なんて紙きれじゃないですか。紙きれどころか、ただの数字でしかないんですよ」

「金さんねえ。あたしは遠山の金さんなら、初代中村梅之助から知ってるよ。歴代全員男前だけどね、私の好みはやっぱり杉良太郎だね。あの桜吹雪がまた見たいもんだよ」

年齢不詳だが年上であることは間違いないだろう。
昭和の匂いのする女は自分の発言に満足げな様子で声高らかに笑っている。この女に全てを打ち明けた自分を恥じた。

「むしろ狂わされているのは金さんの方さ。昨日の夕食はなんだい?」

「夕食ですか…」

なぜ、こんな怪しい女に一瞬でも心を開いてしまったのか。
後悔先に立たずとはこのことだ。

女が早く言えビームを飛ばしてきたので、仕方なく訝し気に答えた。

「確か、鰤の照り焼きと煮物だったかな」

「おお、いいねえ。私の好物だよ。あんたも好きなのかい?」

「はあ、まあ」

「で、一日何回そのキラキラ時計を見るんだい?」

「え、数えたことないですけど、しょっちゅう」

「で、あんたの夢はなんなの」

まったく意図の読めない質問攻めに圧倒されながらも、自分の夢を探してみた。

国家公務員、結婚、マイホーム、子供の誕生。気づけば今までの俺の夢は一通り全て叶っていた。それ以降の夢は考えてもみなかった。
夢は叶ったときの達成感は一瞬で頂点に達し、あとは日常の荒波に飲まれて、ゆっくりとスロープを下っていった。幸せなんて、こんなもんだろう、そう思うようにしていた。

夢か、これからの夢なら…

取りあえず思いつく、ありきたりの夢を絞り出す。早く時が過ぎて定年を迎えて、今まで行けなかった旅行や釣りやゲームの趣味三昧の日々を過ごす余生ぐらいだろうか。

「今、あんたが描いた夢に鰤の照り焼きはあったのかい?」

脳天を直撃されたような衝撃が走った。

「あんたの好物を作って、あんたを待ってくれる人は、あんたと一緒にいたのかい?」

二度目の頭突きが頭上に落ちた。

なぜ妻と我が子との夢が出てこなかったのか。俺は仕事で忙しく、妻も育児で疲れていて、最近は喧嘩が多かった。新婚当時は溢れていた妻への感謝もだんだんと忘れていった。朝起きてから歯を磨いて、今日一日が何のトラブルもなく早く終わることを願う。それが俺のルーティーンだった。

「仕事で落ち込んだら、まずは自分の愛する人の顔を思い出すんだね。金はね、思い出させてくれるんだよ、大切なことをね。時間ばかりに気を取られてたら、もっと大切なものを失うよ。簡単なことさ。生き急ぐんじゃない。さあ、あの角を曲がれば駅の入り口さ。あれ、あんたのしけた顔が少しは明るくなったら、雨が止んだようだね」

女と二人で空を見上げた。
雲の合間から青い空が見え隠れしている。

そうだ、俺には愛する家族がいる。当たり前のように好物を作ってくれる妻、当たり前のように笑顔をくれる我が子。それは当たり前のようで、当たり前じゃないのだ。

妻と我が子に会いたくなった。
生き急ぐ時間ばかりを気にして愛する時間を忘れていた。
急に今の時間が愛おしくなった。

「それじゃ、あたしはもう行くよ」

「あ、あの、相笠のお代は」

「あんたの笑顔で十分さ。あんたが笑えばこの世のためさ」
女は花柄の傘をたたみながら、急ぎ足であっけなく去っていった。

人は見かけによらないな。

女の後ろ姿を眺めながら、終始懐疑的な目を向けてしまった自分を戒める。

あの怪しい女に会えて、今日はツイていた。
俺にもやっと運が味方したのだろうか。

やばい、大幅に遅れた。今何時だ。

我に返って腕時計に目をやる。
すると、つけていたはずの腕時計がない。

「まさか!」

はっとして更に小さくなった女の後ろ姿を見る。

ちょうどよく女が振り返る。
女は俺の腕時計をした腕を天に向かって勢いよく振りかざした。
高らかな笑い声が遠くに響く。

「やられた」

女を追いかけようとした瞬間、腹の底から可笑しさが込みあげた。
俺は女の笑い声のように高らかに笑った。

こんなに声を出して腹が痛くなるほど笑ったのはいつの日だっただろう。

俺にはもう腕時計は必要ないのだ。

腹の痛みが少しおさまったとき、再び雨上がりの空を見上げた。

「空ってこんなに美しかったのか」

青く澄み渡った空が金色に輝き、柔和な風が頬を撫でた。
懐かしい匂いと不思議な安心感に包まれ、しばらく恍惚感に浸る。
風はやがて角度を変えて追い風に変わり、俺をこの世界に引き戻した。

もう一度女の後ろ姿を探す。
女の姿はもう消えていた。
ありがとうを言う前に。

腕時計の重さの分、軽くなった足どりで、駅のホームへと続く階段を下りて行った。

【第2話】https://note.com/tokonishioka/n/n253421aaf301
【第3話】https://note.com/tokonishioka/n/n7adf6d70a17f 
【第4話】https://note.com/tokonishioka/n/n14d53bc4873a
【第5話】https://note.com/tokonishioka/n/n1e018a19598c

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