【相笠の女#2】離婚できない女

そう、それは、にわか雨とともにやってくる。
「だから傘を忘れちゃいけないよ」
街であの鮮やかな花柄の傘を見つけたら、あの女かもしれないからね。


バスに乗車したときは雲一つない晴天だったのに。

最新の春夏コレクションで手に入れたロゴが際立つヴィトンのハンドバッグを我が子のように撫でながら、車窓の外を眺める。

灰色の雲が高層マンションを覆いつくすようにゆっくりと迫っている。

どうにか帰宅するまでもって。

『次は…』

どんよりとした空とは対照的な澄んだ声の車内アナウンスが流れ始めると、雨の水滴が一滴、一滴、静かに窓をたたき始めた。

渾身の祈りは届かなかった。

よりにもよってちょうど下車するときに雨が降り出すなんて。

仕方なしに降車ボタンを押す。

今朝は2回も洗濯機を回して大量に洗濯物を干してから出かけたのに。そういえば、午前中にスーパーで買い物したとき、3日前から狙っていた広告の品の国産黒毛和牛が売り切れだった。今日は一日中ツイてないわ。

小さなため息をつく。

なによりも新品のバッグを持ってくるんじゃなかった。まだ奥様会で披露してないのに。雨に濡れて汚れでもしたら中古品だと思われちゃう。

奥様会のメンバーのほくそ笑む顔が浮かぶ。こんなことになるならタクシーで帰ってくるんだった。後悔するほどに雨が強くなっていく気がした。

小さな食品卸売業の会社を営む夫の大手取引先の奥様が主催する社長夫人会に入って17年が経った。おかげで今でもご贔屓にしてもらっているのだが、月に一回第三水曜日に開かれる奥様会ランチは地獄そのもので、月初めになると憂鬱になるのが習慣だった。

奥様会の表向きは、夫を支える妻たちによる企業発展のための情報交換や社会交流だが、実際には高級ランチを食べながらお互いのファッションチェックをする場である。自慢と称賛の綱引きをしながら、どんな新作のハイブランドを身に纏っているかで財政状態を探り合う。勝敗の採点基準はデザインやコーディネートではなく値段であり、会の途中にもかかわらずライバルの持ち物をスマホでネット検索する。ゆっくりと味わいたい高い会費のランチは嫉妬or優越感味の2種類しかないのだ。万が一会を欠席したあかつきには標的となり、讒言パーティと化する。つまり、欠席は退会と同じである。会の終わりには次回の対策用に集合写真撮影を欠かさず『やっぱり会長が一番オシャレですね』というお決まりの締めの挨拶をして、取引を継続してもらいに行く会なのである。

あさっての奥様会のために、新品バッグにあう服を買いに出掛けて帰宅する途中だった。

突然のにわか雨で人々が右往左往する街の中をバスが走る。
徐行するタイヤが雨を弾く。

無情にもバスは停車し、乗降口の扉が開いた。
覚悟を決めてヒールが滑らないように用心しながら下車をする。
街にはすっかり雨の匂いが充満していた。

すぐには止みそうにない。

ここから家までなんてタクシーは拾えっこないし。コンビニまで走るしかないかしら。

バス停の通路シェルターで雨宿りしながら作戦を考えるが、一向に良い案は浮かばない。取りあえずハンドバッグを手提げ紙袋の奥底に仕舞い込んだ。

静かな雨を見つめながら、駆け出すタイミングを躊躇していると怪しい低音ボイスが背後から聞こえてきた。

「お客さん、どこまで」

「きゃあ!」

後ろを振り返るとボサボサの白髪交じりの髪に年季の入った黒いパンツをはいた女が、ゾッとするような不気味な笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

「その桜色のバッグはおニューかい?綺麗な色だね」

突然話しかけてきた女は肩にかけていたエコバッグから封のあいた小袋のキャベツ太郎を取り出した。雨の匂いに甘いソースの香りが入り交じる。満足気にザクザクと食べる女の口から食べかすが飛び散った。

「ちょ、ちょっと、私のルブタンのパンプスに落ちてるじゃないの!」

眉をひそめる女の頭上には幾つものクエスチョンマークが浮かんでいた。

「え?ブタマンだか、ブタタマだか知らないけどね、ブル中野の金網ギロチンドロップは凄かったよ。あたしはね、極悪同盟からの筋金入りのファンなのさ」

女は一人、青のりのついた黄色の歯を剥き出して高笑いしている。

怒りより恐怖が勝った。全く話の通じない女にノックアウトされそうになる。

遠のく意識の中、薄っすらとぼやけて見える女は口元にキャベツ太郎の袋の開口部を運んで逆さにすると、袋をトントンと叩いてフィニッシュへと向かった。完食して空になった袋をパンツのポケットに仕舞い込み、今度はエコバッグから花柄の折り畳み傘を取り出した。

「さあ、行くよ!」

女がキャベツ太郎の手で私のカーディガンの袖を引っ張ろうとしたとき、やっと意識を取り戻した。

「ちょっと、あなた勝手に触らないで!警察呼びますよ」

「警察なんて大袈裟な。まあ、いい。じゃあ交番まで乗せてくよ」

悪びれない女に呆れ返る。言い返す言葉が出てこない。

「困ってるんだろ。とにかく乗っちゃいな。安くしとくから」

女は花柄の傘を差すと「5、4、3…」とカウントダウンを始めた。

周囲を見渡すが、車はどこにもない。

まさかこの女と相笠…

わずか数秒間で頭の中はフル回転する。

確かに雨には濡れたくない。でも同じ区内に住む奥様会のナンバー2に偶然会ってしまうかも。こんな見すぼらしい女と一緒にいる所を見られたりしたら、すぐに告げ口されて標的だわ。もしかすると高額を請求してくるぼったくりで、払わないと後からもっと怖い人に脅されるかも。

「2、1…」

なぜ人はカウントダウンに弱いのだろう。呪文のようなカウントダウンのせいで気が付けば女の傘に入っていた。

仕方ない。バッグのためよ。一抹の不安を抱きながらも、女と相笠で歩き始める。

「この道を真っ直ぐ行って、二つ目の信号を左よ」

女は返事もせず黙ってスタスタ歩く。

ナンバー2にばったり会ってしまったときの言い訳を考える。親戚とも、友達だとも言えない。近所の人で乗り切るしかないかしら。勢いで女の誘いに乗ってしまったことを後悔し始めたとき、女が口を開いた。

「美しい宝石が台無しだね」

女は右手薬指にはめていた私の金緑石の指輪を横目で見ながら言った。

「どういうこと?」

「どんなに見栄張ったって、本人が輝いてなきゃ。かわいそうに。宝石がよどんでるよ」

唐突に貶されて反応が鈍る。言葉が見つからず女を睨みつけると、今度は私の左手薬指の指輪を見ていた。

「あんた、今幸せかい?」

ハイブランドとは全く縁のなさそうな女の出で立ちを上から下まで再確認する。何故この女に幸せを問われているのだろうか。人生は何が起きるか分からない。

「何を急に。幸せに決まってるでしょ」

少なくともあなたよりはね。心の声が駄々洩れする。

「フーン」

聞いてきた割には素っ気ない女の返事に苛立った。

「あんた、旦那を愛しているのかい?」

またしても唐突な質問を投げてくる女。

即座に答えられなかった。それは常軌を逸した女のせいなのか。ただ、愛している。この言葉の響きにチクりと痛みを感じたことは確かだった。

「何故あなたにそんなこと答えなくちゃならないの?だいたい新婚でもあるまいし、そんなこと言えないわよ」

「愛もないのに一緒にいるならパパ活と一緒じゃないか」

見ず知らずの女に何故こんな辱めを受けなきゃいけないのか。怒りが爆発する。

「あなた、いい加減にしてちょうだい。結婚してるのよ!愛があるに決まってるじゃない!」

「あんた、さっきから声が震えてるよ」

「あなたに腹が立ってるからよ!」

もはやこの女と普通の会話はできないのであろう。

「助けてって震えてる」


女の一言は怒りの頂点から急降下で私を落下させた。頭の中が真っ白になると、今度は心の奥底から得体のしれないドロドロした何かが込み上げてくる。

行きたくもない奥様会のために高いブランドものを買い、それを中古で売る。奥様会にばれないように在宅ワークで働き、広告で特売品を探してスーパーを梯子する日々。忙しい夫になるべく頼らないよう家事も育児も一人で頑張った。

それなのに…

大粒の涙が頬を伝い濡れた地面に落ちたとき、私の中で得体の知れなかったドロドロが弾けた。

「夫は子供たちが一番手がかかる年頃に忙しいフリして浮気したのよ。それでも子供の将来のために我慢した。私は全てを家族に捧げてきたのに、結婚して30年以上経った今も夫は私の好きなことも、好きな食べ物さえ分からない。知ろうともしないわ。結婚したら幸せになるものだと思ってた。でも結婚してみたら独身時代よりも孤独になった。結婚なんて何のためにするのよ」

よりにもよってこんな怪しい女に自分をさらけ出してしまった。

「なんで別れないんだい。子供は巣立ったんだろ?」

「今更この歳で離婚なんて、一人で惨めになるだけでしょ」

「今は惨めじゃないのかい?」

女の頭突きが脳天を突き刺し、身体中に衝撃が走った。何故この女には、どんなに装っても透き通ってしまうのだろう。神秘的な恐怖さえ感じた。

夫の浮気が発覚後、私なりに考えて反省すべき点があったことは自覚していた。また、夫も変わろうと努力していた。私の趣味ではないものばかりだったけれど、それまで祝ったこともなかった私の誕生日や結婚記念日に贈り物をくれるようになった。

きっと時間が解決してくれる。またやり直すことができるはずだ。夫の裏切りを水に流すことが家族の幸せであり、自分の幸せなのだと自分に言い聞かせた。

でも、それからどんなに時間が経てと、心底夫を許すことができなかった。

それでも、やっぱり子供の将来のことを考えると生活を変えることが怖かった。一人で生きていく自信もなかった。何よりも認めたくなかった。自分が幸せじゃないということを。自分の選んだ結婚が失敗だったということを。

そんな自分が情けなかった。惨めで仕方なかった。
自分をごまかし、なんとか夫を愛そうとした。

「結婚も離婚も独身も愛を知るためのただのツールさ。失敗も成功もないんだよ。惨めになるのは失敗じゃない。孤独になることもさ」

久しぶりに愛の言葉に触れ、女に心を許していく自分がいた。

「あんた、ずっと愛を探してたんだね」

心臓が突き抜かれて穴が開き、そこから抑えきれない感情が放たれる。

「でもね、旦那がどんなにあんた好みの贈り物をしたとしても、あんたは満たされないよ。もう自分を責めるのはおよし」

長い間、重鎮していた背徳感が溶かれていく。

「探し物はいつだってあんたの中にある。それに気づけたら、どんな美しい宝石よりも輝けるよ」

試合終了のゴングが鳴り響く。降参するしかなかった。
穴の開いた心臓に灯がともり、身体中が暖かい優しさに包まれる。

止まらない涙。止まらない鼻水。バッグにいつも常備しているポケットティッシュを探すが見つからない。新品のバッグに入れ替えるのを忘れていた。仕方なくエルメスのハンカチを取り出す。

恥も外聞も捨て、泣き続けた。

ハンカチがびしょ濡れになった頃、いつの間にか空が晴れ渡っていた。

女の言葉でやっと気づくことができた。

私のことを何も知らない、知ろうとしない夫。
それでも夫に愛を探した。

満たされないはずだ。

本当は夫ではなく、私の愛を求めていたのだから。

「愛してない」

今日から自分をごまかさずに生きる。

「愛してない。夫を愛してないわ!」

こんな高揚感は何十年ぶりだろう。今、やっと夫の裏切りが許せた。

「そうだ、あの、私、ごめんなさい。あなたに失礼な態度を…」

辺りを見回すが、女の姿が見当たらない。

どこに消えたのかしら。本当に謎の女だわ。でも、一生の恩人ね。

雨上がりの道を歩く。普段より足取りが軽やかだ。いや、右手も軽やかな気がする。右手に目をやると金緑石の指輪がない。

「大変、どこに落としたのかしら。私の一番高い指輪よ。まだ支払いも終わってないのに」

慌てて来た道を引き返す。血眼になって探してみてもどこにも見当たらない。記憶を辿ってみる。あの女と話していたときには確かにあったはず。

哄笑する女の顔が頭をよぎった。

「まさか!あの女…」

「ミャオ」

突然、猫の鳴き声が聞こえた。

漆黒の猫が目の前に横たわっている。

どこから来たのかしら…

濡れた毛の毛繕いをしていた黒猫は私の視線を感じたのか、こちらに視線を向けた。

猫と目が合った。

暗闇でもないのに猫の目が大きく光り始めた。黄色だった目は緑色に変わり、更に真っ白になった。白い一条の光を放つ瞳に心を奪われる。

「どんな宝石よりも美しいわ」

猫は尻尾を一度だけ振ると、けだるそうに起き上がった。左右をキョロキョロと見回した後、欠伸をしながらゆっくりとその場から去っていった。

そうね、私にはもう宝石は必要ない。あの猫のように自分で輝かなくっちゃ。

指輪を探す手を止め、背筋を伸ばして前を向いた。

一歩一歩力強く、満たされてゆく。
高笑いする声がしばらく街中に響いていた。


最後までお読みいただき有難うございました!😊🙏