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第一精神文明時代 古事記と言霊 9

人類の歴史に数千年にわたり実在し、存続した精神的理想の時代であったのです。この時代の日本国は「霊の本」(ひのもと)と呼ばれました。世界の政治の根本原理である布斗麻邇を保持して世界の中心となり、その上言霊原理より直接造られた日本語を以って生活を営む国の意であります。その法・教・政庁の最高責任者を天津日嗣天皇(アマツヒツギスメラミコト)と呼びました。心の先天構造から発する(天津)精神原理(日)を先祖より受け嗣ぎ、世界の人々の生命・使命(みこと)を総覧(スメラ)する人の意であります。
天皇の系譜(王朝)である邇々芸(ににぎ)、日子穂々出見(ひこほほでみ)、鵜草葺不合(うがやふきあえず)の三王朝が相継ぐ約五千年の間精神文明の華が咲いた時代。
この五千年間を人類の第一精神文明時代と呼ぶ
精神文明時代の第三番目の鵜草葺不合王朝の中葉に到り、爛熟した精神文明の社会の中に漸くその時までとは違う風潮が起って来た。物事を見る側、即ち主体を見つめる眼が、物事を外界として見る物質の方向に移って行く傾向が醸成され始め、進んでその外界の探求に興味を示す人が増して来たのである。今より四千年程前の事と推定される。
それを主張する社会の中の勢力が次第に強くなって来た。
「心とは何ぞや」から「物質とは……」への関心の変動。
徐々に精神文化の日本より外国への輸出を減らして行き、終に今より三千年程前に到り、日本朝廷の人類文明創造の政治の宏謨が精神文明から世界を挙げて物質文明創造へと切り換える事が決定された。
一足先に外国に於いて精神文明時代は終焉の幕が下ろされ、二千六百余年前、日本に於いても新しい神倭王朝の創設となり、六百年後、神倭(かんやまと)王朝第十代崇神天皇の時、精神文明創造の原器であった言霊布斗麻邇の原理の象徴である三種の神器が天皇の座右から離され、伊勢神宮の神体として信仰の対象となって祭られた

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