雑感メモ #1(意味について#1)

この記事は、テーマにするほどでもないけど気づきメモを残しておくコーナー。

価値があるには、「役に立つ」という軸と「意味がある」という軸がある。役に立つ軸の方は追求していくと役に立たなくなるばかりか、究極的には差が無くなってしまう。一方で意味がある軸には多様な答えがある。「好き」という感情にも通じるものがあり、従って「好き」を探索することは意味の醸成につながりうるだろう。一方で、「役に立たないし意味がない」の代表格にアート作品がある。そのアートからどのような意味を読み解くかは趣深い問いである。

最近、美術館巡りを始めたり、会社のアート部にも入部し、対話による新たな意味や視点の探索に挑戦している。アートを鑑賞する時に一番気を付けているのは、自らが主体的に観て、感じること。(三原色:赤、青、緑)、音、味(基本味:甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)、匂い、そして触覚(原触:かたい/やわらかい、粗い/なめらか、冷たい/あたたかい、(湿っている/乾いている))を含む触感など、五感をフルにはたらかせたい。

意味について、もう少し深堀りしてみたい。ここに実証主義、個人主義と並んで社会構成主義という言葉がある。これは端的に言えば社会の中で合意されることで初めて意味をなす、とする考え方で、昨今、認識や関係性といった目に見えないプロセスの固定化による適応課題の解決に対して、対話によって新たな意味が生まれることも期待されている。他にも、ティッシュ箱はもともと化粧落としのために開発されたが、ある日ユーザーが「これ、鼻かめるじゃん」っていって、社会的にそれが合意されて新たな意味が生まれたのも、社会構成主義的なアプローチのように考察できる。このように、社会構成主義において、意味は予め決まっているものではなく、様々な主体や対話によって社会的な合意を経て成り立つものである。従っていつでも意味は人から創造されるものであり、ここに人の内発的動機との関連性を期待することもできる。

人の内発的動機は、どのように生まれるのだろうか。個人的な原体験からくることもあるだろうし、何らかの問いに直面した場合に生まれることもあるだろう。原体験そのものはその個人にしか味わうことができない点で予測が難しい反面で、「問い」については予めデザインし、意識的に問うことができる。また、問う相手も、自分自身なのか、チームなのか、選ぶことができそうだ。イノベーション(新結合)は個人ではなくチームでやるものという前提に立つならば、有効な問いをチームに投げることで何らかの化学反応をもたらすことも可能かもしれない。

少し前に戻って「意味」について補足する。「鈴木さんちのカレー」という話をご存知だろうか。これは意味付けの意味を考えさせられる話なのだが、「私んちの隣、鈴木さんというんですよ」「で、その人んちのカレー、食べたいと思いますか?」という問いから始まる。いくつかやり取りを進めていくと、なぜかそのカレーを食べたくなってきてしまう、というストーリーなのだが、その裏には「意味」が流れていることに気づく。情報の価値はゼロであり、そこにいかに意味付けして価値をのせていくか、といったことを考えさせられるたとえ話である。

たとえ話で言うと、最近「アナロジー思考」というものに関する動画を観た。これは似ているものから考えるとする思考法で、意味の類似性と、仕様の類似性に分解できる。それぞれ理解や創造のためのアナロジーとして紹介されていた。例えば母の日のプレゼントにマトリョーシカの価値を応用すると、毎年フレームを持って写真を撮って、それを繰り返すといった連続性/入れ子の価値が反映できる、といった(ふつうは思いつかない)事例が紹介されており、非常に面白いアプローチである。このように、抽象化して考えることで、他にも転用できアイデアが広がる、という考え方は、以上述べてきた意味や内発的動機と無関係ではないだろう。

最後に、最近の黒ぽん(プロフェッショナル仕事の流儀で時々ポーンって鳴るアレ)を紹介して締めることとする。

同じ正解には価値がない
私たちは、統計や確率によって生きるわけではない
出典:野田智義・金井壽宏『リーダーシップの旅』

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