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短編「雨に降られて」

この小説は4,362文字です。

『雨雲接近、雨雲接近。ただちに屋内に避難してください』

 街中にアナウンスと共にサイレンがけたたましく鳴り響く。
 人々は一斉に空を見上げ、陰鬱な水蒸気の塊が迫りくるのを認めると、早足に散り始めた。

 美玲みれいは50メートルほど先のスーパーマーケット目指すことにした。空車の多い駐車場を走り抜ける。履きなれないパンプスが美玲の逃げ足を遅くする。まだ2回しか身に着けていないリクルートスーツまでもが動きを制約するように感じられる。

 ベビーカーを押す若い母親が美玲を追い越していく。

「ママ~! まって~!」

 園児服の男の子が覚束ない足取りで追いかける。あ、と思った瞬間に、男の子はアスファルトにダイブするように勢いよく転んだ。痛みと恐怖で泣き叫ぶ。
 母親はハッとした顔で振り返り、そしてすぐにベビーカーを覗き込み、それからスーパーの入口までの距離を目測した。

「泣いてないで走りなさいっ!」

 母親はその場で叫ぶ。

「だって~、痛いよ~。ママ、抱っこして~!」

 美玲は心持ち足を遅め、何度も男の子を振り返る。そのたびに高層マンションの向こうから迫りくる雨雲が目に入った。

『雨雲接近、雨雲接近。まだ屋外にいる人は、至急、近くの建物に入ってください』

 サイレンの音量が上がった。

 雨雲は既に頭上にかかっていて、いつポツリと落ちてきてもおかしくない。
 美玲はくるりと向きを変えて男の子の方へと走り出した。と、ビジネススーツの男性が攫うように男の子を拾い上げ、文字通り小脇に抱えて連れて行く。
 スーパーの入口では母親が両手を広げ、迎え入れる体勢を取っていた。

 よかった、とホッとした瞬間、額に雫が垂れた。美玲はパンプスが脱げるのもそのままに、全速力でスーパーに駆け込んだ。
 見知らぬ人たちが勢い余って倒れ込む美玲を支える。
 同時に自動ドアの側にいた人たちは、ドアの電源を切った。以前は店員がやっていたが、緊急時に間に合わないため、今では誰にでもわかるように自動ドア横に大きな赤いボタンが付けられるようになったのだ。これでひとまず雨が遮断できる。

 美玲は雨の一滴が垂れたところにそっと触れてみた。ピリッと痛んだ。かぶれたのかもしれない。明日も面接なのに、コンシーラーでうまく隠せるかしらと考えてみたりする。

 突如、ゴォーッという轟音と共に、自動ドアの向こうが白く煙った。

 ――来た。

 通勤電車並みに混雑しているスーパーの入口付近だが、瞬時に静まり返った。

 雨は何度経験しても慣れることがない。その都度、死が日常と隣り合わせであることを思い知らされる。誰もが口を閉ざすのも同じ思いなのだろう。

 バンッ!

 重みのある衝撃音に、人垣が一斉に揺れた。
 自動ドア付近から複数の悲鳴が上がった。
 美玲も背伸びをして覗き込む。
 すると、自動ドアの向こうに張り付くようにして一人の女性が立っていた。

「開けてっ! お願いっ! 中にいれてっ!」

 しかし、誰も自動ドアの電源を入れようとはしない。なぜなら入口が開けば、あの豪雨が吹き込んでくるに違いないからだ。

 外の女性の顔や手の甲にプツプツと小豆のようなイボが現れてくる。みるみる内に数を増やし、今や元の肌どころか顔かたちさえわからなくなっている。

 人々からは息を飲む音は聞こえるものの、悲鳴を上げる者は誰もいない。誰もが初めて目にする光景ではないからだろう。慣れとは違う、受け入れざるを得ないという覚悟。

 真っ白だった自動ドアの向こうがぼんやり景色を浮かび上がらせてくる。雨が去っていくのだ。
 人々がほっとしたようにざわめき始め、空気が和らぐ。

 美玲もひとり胸を撫で下ろし、薄れていく雨の幕を眺めていると。先ほどの女性の体をそっと横たわらせる影が映った。

 ――え?

 なぜ雨の中に人が? しかも動いている?

『雨雲の通過が確認されました。各自、ご注意の上、外出してください』

 アナウンスが流れ、多くの救急車が走り回るサイレンが聞こえる。終わったのだ。またひと雨、生き延びた。

 美玲は安心すると同時にパンプスを失くしたことを思い出し、「ああっ、もうっ!」と声に出して叫んだ。

 見かけた人影のことは頭から消えていた。

   ◇

 美玲はいくつかのエントリーシートを作成してから、明日の面接に備え、リクルートスーツにアイロンをかけていた。
 パンプスは帰りに新しいものを買ってきた。予定外の出費は痛いが、仕方がない。
 スーツのジャケットの向きを変えながら、つけっぱなしにしてあるテレビに目をやった。雨のシーンだった。

「……あ。これって」

 美玲はアイロンを立てかけると、テレビ画面に見入った。美玲が生まれるより前の古い映画だった。

「懐かしい……」

 高校の文化祭が思い出される。あまりにもやる気のないクラスだったため、楽をしたいという理由からビデオ上映をしたのだった。それも古い映画ばかり。両親が若い頃見たであろう映画だ。

 テレビ画面では、密やかに無数の絹糸を垂らしたかのような雨が降っている。

 文化祭のビデオ上映でこの映画を観た時、これが雨だとは信じられなかった。閑古鳥の鳴くビデオ上映室で、受付当番だった美玲と裕紀ひろきはただひたすらにこの映像に魅せられた。数十年前まで雨は悲しくも美しく、人恋しくさせるものであったらしい。

 このシーンから目を離さずに美玲と裕紀は初めて手を繋いだのだった。

 その裕紀もまた、高校卒業を待たずして雨に消えた。

 ここ数十年、おそらく20年か30年ほどでこの災害は増えている。
 災害……天災なのだろう。突き詰めれば人災だという専門家もいるようだが、美玲にはよくわからなかったし、知ろうと思ったこともない。

 雨は危険だ。そのことだけをしっかりと意識している。

 雨は毒だ。成分についてもいろいろわかっている部分とまだ解明されていない部分があって、結局のところ誰にも何もわかっていないのと変わらない。
 雨に打たれてはいけない。それだけが確実にわかっていることだった。

 昼間の女性の姿を思い出し、美玲は眉根を寄せる。
 あの女性はきっと助からなかっただろう。美玲でさえ、あのような状態になった人を何人も見かけたことがある。それほどによくある事故なのだ。裕紀もあんなふうになって消えたのだろう。

「美玲ちゃんには本当に仲良くしてもらって……裕紀も嬉しかったと思うわ」
 裕紀の母親にそう言われても、美玲に答える言葉はなかった。

 そんなありふれた言葉で繋がれた手じゃない。もっとあの光る絹糸のような雨で小指と小指が繋がっているような、そんな感じ。

 きっとわからない。
 誰にもわからない。
 裕紀にしかわからない。

 裕紀のいない世界で大学に進学してからも、美玲は誰とも手を繋がなかった。裕紀を忘れられないとかそんなセンチメンタルなものじゃない。ただあの時の気持ちに満たないのに手をつなぐ気にはなれないだけだ。

 テレビ画面には青空が広がり、街中がキラキラと輝いている。貧乏画家の青年と、素朴なパン屋の娘が手を繋いで空を見上げている。青年が提げた閉じられた傘の先からポロンポロンと煌めく粒が滴り落ちている。

   ◇

『雨雲接近、雨雲接近。ただちに屋内に避難してください』

「またなの?」

 美玲はうんざりしたように呟いた。
 昨日に引き続きの避難放送だ。しかもまた同じスーパーマーケットの前。連続で雨に遭うことはそう多くはない。就職活動中だというのにこの運の悪さはどうだ。いや、厄落としだと思うべきか。などと考えながらスーパーの入口へと向かう。

 考え事などしていたせいか、まだ駐車場に差し掛かったばかりだというのに次のアナウンスが入った。

『雨雲接近、雨雲接近。まだ屋外にいる人は、至急、近くの建物に入ってください』

 急がなきゃ。美玲は早足を小走りに切り替える。
 車止めのブロックを避けようとして、軽く足首を捻る。

「あっ」

 よろけただけで体勢を立て直す。しかし、パンプスが脱げたまま4、5歩進んでしまっている。下ろした当日になくすなんてことはできない。美玲は新品のパンプスを回収すべく、数歩戻った。

 ――ポツ。

 頬に雫。涙のように顎へと伝っていく。
 急がなきゃ。美玲がそう思った瞬間だった。

 一気にザアッと雨が落ちてきた。

「きゃあぁぁぁぁ!」

 頭の中が燃えるように恐怖で熱くなった。

 急いで立ち上がろうとするが、雨の勢いは思いのほか強く、上から押し付けるように降ってくる。
 手の甲に小豆の粒のようなものが浮き出てきた。
 これって血豆なのかしら。美玲の頭の片隅の冷静な部分が、必死にそれがなんなのかを理解しようとする。

 もうだめなのかもしれない――。

 取り乱すでもなく、不思議と冷静に美玲は受け入れられる気分だった。

 ふと右手を取られる。

 ボツボツした硬い肌。アボカドかゴーヤでも握っているかのような。
 雨に煙る駐車場をその手に引かれて歩き出す。
 その人は美玲の右後ろに立ち、左手で美玲の肩を抱き、右手で美玲の右手を握っていた。

 美玲の目に映るその人は手だけ。触れた感じのままの赤黒くボツボツした、人らしい滑らかな部分のない肌。
 その人は美玲を抱え込むように歩いていく。雨で視界が遮られてどこを歩いているのかわからない。けれどもその人に任せておけば安心だった。信じられた。

 突然目の前にガラスの壁が現れ、バンッ! と勢いよく衝突する。スーパーの入口の自動ドアだった。ガラス越しに目を見開く人々が見えた。

「助けてっ!」

 美玲はガラスを平手で叩く。

 しかし、人々は助けてくれるどころか後ずさっていく。やはり雨が吹き込むのが怖いのだろう。

 美玲は諦めにも似た気持ちでその場に蹲る。

 その全身を覆うように、顔も知らない誰かの両手を広げた背中が雨を防ぐ。

 店内で若い女性や子供がこちらを見て悲鳴を上げながら泣き叫ぶ。

 なにか違う。いつもはもっとみんな静観しているのに。

 美玲はガラスの向こうの視線が自分の背後に向けられていることに気付いた。
 雨から逃れるのに必死で深く考えなかったが、この人は誰なのだろう。いや、なんなのだろう。なぜ雨に打たれても動けるの?

 美玲は丸めた身体からそっと右手を伸ばした。そして自分を守るその人らしからぬ肌の右手に重ねる。その人がビクリと震えた。

 雨音が静まっていく。雨に煙って白く沈んでいた辺りが影を結んでいく。日差しがその人の手にあたり、キラキラと輝く。指先からポロンポロンと煌めく粒が滴り落ちている。

 美玲は確信した。

 その名を呼びながら振り返った時、そこにはもう誰の姿もなかった。

 美玲は目に映るものに懐かしさと愛おしさを感じていた。
 その視線の先には、青空が広がり、街中がキラキラと輝いている――。