詩集「雲居なす」
微睡みの底に
そこには君がいた
かつてと変わらぬ君がいた
目覚めれば君と見つめ合い
眠りに落ちるまで君と寄り添う
あの頃の世界は
君で満ちていたのに
浮上していく意識をごまかしながら
わたしはどうにかして
そこに留まろうとする
かすかな足音をたて駆け寄る君
わたしを呼ぶ声
名残惜しそうに見つめる瞳
君の思いが錨となって
意識の底に繋ぎ止めてくれたらいいのに
それでも時が来れば
微睡みの海は遠ざかってゆく
君にも
わたしにも
抗うすべはなく
ただ
釣り上げられていく
君のもとに
わたしの欠片を残したままに
君のまといし衣の糸は
君のまといし衣の糸が
ふいに舞い戻ることがある
おかえりと呟けば
衣の糸は軽やかに
ふわりふわりと空を舞う
君に触れたやわらかが
現よりも鮮やかで
穏やかな陽射しさえも鋭くて
君のいた陽だまりに
降りしきる矢のごとく突き刺さる
君のまといし衣の糸は
時折
君が知るはずもなきところで
ふいに現れたりもして
守るすべなく
景色はゆらゆらと水の中
君のまといし衣の糸は
ふいに舞い戻ることがある
あな愛しと呟けば
衣の糸は軽やかに
ふわりふわりと空を舞う
ふわりふわりと消えてゆく
いまはなくして
あなたはここにはいないのに
ほんのかすかな物音に
あなたの気配を感じてしまう
気配感じたそのひとときに
あなたがいないと感じてしまう
あなたがいない冷たさは
あなたがいたあたたかさ
あなたはどこにもいないのに
ほんのかすかな空音にも
あなたの息差し感じてしまう
息差し感じたそのひとときに
あなたがふつと消ゆを知る
あらぬ世にこそあると知る
あなたがいないことよりも
あなたがいたということを
ただ日すがらにかき抱く
ただ夜すがらにかき抱く
われてもすえに
またいつかあなたに会えたその時に
わたしはそれと気づくでしょうか
またいつかあなたが会いに来るはずと
疑いもなく信じてる
もしも姿が変わっていても
わたしはあなたに気づくでしょうか
気づかぬわけがありません
今日か明日かと待ち続け
今か今かと耳澄ます
もしもあなたが忘れても
わたしはあなたに気づくでしょう
さすれば
あなたもわたしに気づくでしょう
もしも互いに気づけなくても
必ずや再び共にあろうと惹かれあう
だからあなたとわたしは
いつか必ず相見えるに違いなく
今はまだ姿はどこにもあらずとも
あなたとわたしは紛れもなく共にある
水の月 三景
水粉
水の粉
静けさに舞い
白く煙る
昼下がりの町
遠雷
低く唸る空の音に
身を伏せ耳を伏せ
震える猫
しっとり湿り気を帯びた
冷たい毛並み
そっと撫でても
怯えた眼差しで見上げるばかり
ただひたすらに
雷獣の唸り声が
過ぎ去ることを待つばかり
去りし日の歌
懐かしい歌響くとき
心は雨に濡れながら
在りし日へと駆けていく
楽しい記憶がなぜか痛く
嬉しい記憶がなぜか苦い
音は雨空へと上っていき
心は雨垂れに打たれてる
雨は音を飲み込んで
心ばかりが濡れそぼる
歌に取り残されて
ひやりと冷えたそのままに
70の朝昼夜
70の朝が流れ去って
70の昼が飛び去って
70の夜が溶け去って
そうやって
70の日々が崩れ去り
瓦礫の向こうに
71の夜明けが訪れる
こうして日々が移ろえば
しだいに瓦礫も消え去って
あたりにやわらかな風が吹く
たとえ記憶が薄れようとも
交わした声は風の中に
触れた温もりは陽だまりの許に
流れて飛んで溶けた日々は
その地にたしかに沁み込んで
思いは永遠に在り続ける
そしてやがては
幾千幾万の優しい朝日が昇りはじめる
僕は自由になった
君が旅に出たから僕は自由になった
なにも整えることなく
なににも縛られることなく
ただ我が身のためだけに暮らせるようになった
夜明けとともに起こされることもなく
外に出るを引き留められることもなく
帰りが遅いとなきつかれることもなく
こっちを見ててと呼ばれることもなく
雷鳴に怯えしがみつかれることもなく
眠りにつくのを妨げられることもなく
君のいない日々は過ごしやすく
ただ我が身のためだけに暮らせるようになった
君がいなくなったから僕は強くなった
暑さをしのぐ術もいらず
寒さを耐える策もいらず
雷鳴轟き 地が揺れようとも
心乱されることもない
ただ我が身のためならば怖いものはなにもない
君が旅に出たから僕は自由になった
君がいて叶わなかった旅にも出られるようになった
やらなくてもいいことが増え
やれることが増えた
君が旅に出たから僕は自由になった
僕は
こんな自由は
ほしくなかった
波間に揺れる
行きつ戻りつ
戻りつ波
やがていつかは
陽沈む彼方
時折大波押し寄せて
避ける間もなくのみ込まれ
白波しばし渦巻きて
行方も定まらぬ流れあり
岸に寄る波
深きに溺れ
沖にゆく波
岸に帰れぬ
岸辺の風の穏やかさ
波打つ際の静けさも
寄せて返す
返して寄せる
返すが大きくあればこそ
波乗せて陽沈む彼方
戻らぬほどの安らかさ
砂に残る足跡
風に薄れ
波に消え
陽沈む方へと去りし思えど
掴めぬ波さえ
揺れに揺れて甦る
行きつ戻りつ
戻りつ波
けして還らぬ
ゆるりと沖へ
手繰り寄せる思いはなくとも
返す波間に浮かぶは泪
雨に煙る
ひんやり澄んだ雨のにおい
白く煙る行く末の階のぼる
濡れた緑の艶やかさ
音を巻き取る細い雨
涼やかに秋誘う
重ねた季節を辿りつつ
取り出し眺める在りし日の憶え
刺さる痛みを好んで受ける
幾度も幾度も受け止める
痛みこそ現の証なればこそ
癒えぬことこそ好ましく
移ろう季節を辿りつつ
去りし季節を巡りつつ
来し方行く末
融けて混じりて雨となる
ひんやり澄んだ雨のにおい
白く霞む来し方の階くだる
静かな雨は捉われた悼み
陽だまりに
季節が下るほどに滑り込む温もり
陽射しは部屋の奥へと延びるのに
在るべき姿は今いずこ
あなたのいない
四角く切り取られた陽だまり
去りし年より大きく見える陽だまり
在りし日の影は幻
やがては影さえ儚くなる
薄れて溶けて
ひとつになる
薄れゆく影をそっと抱き締める
いつかは陽だまりに溶け込むとしても
今はまだ
残る温もり
残る重み
溶けた影の行方に想いを馳せる
馳せる想いが薄れぬように
季節は下る
陽射しは延びる
そして
いつしか翳りゆく
面影もとめて
縁なき誰かにさえも
あなたの影を探してる
瞳の色 それだけでも
あなたの姿をよみがえらせる
あなたに似た
わずかななにかを持つものが
この世に在ることの愛おしさ
けれども
わたしは知っている
あなたはもうどこにもいない
知っている
心にすむなど ただの慰め
知っている
なのに
わたしは今もあなたを探し求める
いつかまた まみえると
信じ込むことでしか
笑ってあなたを思い出せないから
知っている
今は
あなたの影を追い求めても
やがて
影は薄れていくということも
知っている
しかし そうとは知りつつも
心は千々に乱れて散ってゆく
夢の通い路
現よりも鮮やかなぬばたまの夢
かつてと変わらぬあなたの温もり
あなたの眼差し受けながら
その手をじっと待つ
そっと頬を撫でる仕草もそのままで
私は囁く
あなたを失う夢を見た
終わらぬ苦しい夢を見た
あなたは優しい声をかけ
ギュッと指に力を込める
あなたの顔が近づくから
私はそっと目を閉じる
いつものように瞼に口づけ
私は小さく微笑んで
愛しさを言葉にしつつ
目を開ける
されど
そこにあなたはいない
そこにあるのは
日も昇らぬ薄暗い朝
目覚めれば
私は今日も
あなたのいない夢を見る
零れ落ちて
結ぼほる小さき粒さえも
失わずにいたいのに
閉じた指の隙間から
さらさらと零れ落ちてゆく
零れた粒はどこへゆく?
この手を離れてどこへゆく?
零れて 落ちて
夢の世へ
耳に残る声さえも
日々の音に紛れ
瞼に残る姿さえ
新たな色を重ね
今はただ夢の世だけが鮮やかに
零れたすべてを蘇らせる
されどやがては夢の世からも
さらさらと零れ落ちてゆく
零れた粒はどこへゆく?
この身を残してどこへゆく?
零れて 落ちて 堕ちてゆく
残るは濁りなきひと粒
されど
やがてはそれさえも
泡沫に消ゆるのか
会いたくて
会えないときも寄り添う気配
人いきれに紛れる声は幻
風に紛れ頬にかかる息も幻
会いたくて
会いたくて
幻化に酔う
影踏むばかり近寄れば
面影に見えてふと消え失せぬ
会う期あると知ればこそ
消え入るさまも惜しみなく
見送ることもできたのに
今は会うこと叶わぬならば
せめて消えぬ影を覚ほゆ
会いたくて
会いたくて
会えなくて
幻さえも至り至らぬ
心許なく
あいな頼みと知りつつも
会いたくて
会いたくて
露のあわれを差し置きて
会いたくて
会いたくて
想いは雲の彼方へと――
さくらちる
寂しがりのあなた
いつもそばに寄り添って
見つめ合う
寒がりのあなた
いつもそばに寄り添って
温もり求める
互いの温もりに
意識が蕩け眠りに落ちる
あなたと共に眠りに落ちる
そんな日々が続いてく
重ねていく桜の季
桜 サクラ さくら
芽吹き 色づき 開き 散る
散りに散って散り急ぐ
九つ目の桜
暮れつ方
寂しがりのあなた
いつもそばに寄り添って
共にあるを求める
されど
桜 サクラ さくら
無情にも
桜 サクラ さくら
去りゆく温もりに
意識が蕩け眠りに堕ちる
桜 サクラ さくら
あなただけが眠りに堕ちる
さくら散る
あなたひとり
さくらちる
さくら舞い散る
遠き雲居へと
さくら さくら さくら
ありがとう
そして
さようなら
これは2015年に書いた詩です。
あれから9年の時が流れ去り、さくらのいない10年目を生きています。
これまでもこれからも誰にもこれ以上の愛を抱くことはないでしょう。
いまなお変わることのない想いをよせて。