「具楽須古の種」第13話(全35話)
〈月読の掟 草太の章 其の一〉
草太は山のふもとを走っていた。
道の左手は熊笹が生い茂り、木々の根元をおおっている。右手は田畑が広がる。
だいぶ日が傾いているので、すでに村人の姿はない。
草太は家路を急ぐ。
暗くなるとなにが出るかわかったものではない。追いはぎや盗人のことではない。彼らとて、村の少年を襲ったところで盗れるものなどないとわかるはずだ。
それに草太は、竹刀を握っていた。腕に覚えのある者だと思われるだろう。実際、剣の稽古の帰り道だ。とはいえ、あざだらけの体をみれば、腕のほども知れようというものだが。
草太が警戒しているのは、どんなによい剣士であろうとかなう望みの少ない相手だ。狐や狸ならまだましだ。
この山には鬼がすんでいる。
岩木村では毎年、鬼を鎮めるための祭を行う。だが、近隣の村はその風習を捨ててしまった。鬼などいないのだから、そんな祭は必要ないというのだ。今では、鬼がすむという山にもっとも近い岩木村だけが祭を続けている。おそろしい月読の掟にしたがった祭を。
道の先にしゃがみこんでいる女の姿が見えた。こんな時刻に村はずれに一人でいるとは……。
草太は背筋がひやりとするのを感じた。しかし、一本道なので避けて通るわけにはいかない。
草太は走るのをやめ、女の影から目を離さずにゆっくりと歩き始めた。
女が気づいて立ち上がった。
あたりは薄暗く、顔は見えない。声が届くところまで近づくと、草太は竹刀を握り直した。
すると、夕闇の中で女はひらひらと手を振った。
「草太」
名を呼ばれ、草太は思わず立ちすくんでしまう。女はころころ笑って近づいてくる。そして、草太の顔をのぞきこんだ。
「あらやだ。だいじょうぶ?」
草太は、ほうっと息を吐いた。そこには見慣れた顔が笑っている。
「志乃か」
「そうよ。だれだと思ったの? だれかいい人のことを考えていたんでしょう?」
志乃はいたずらっぽく見上げてくる。
「そ、そんな人いるもんか」
「あら。だって寅吉さんが、草太はどこかの茶屋の娘さんから気に入られているって言っていたわよ」
「知るか。そんなのあっちが勝手に言ってるんだろう。兄さんも兄さんだ。女みたいにおしゃべりしやがって」
「そんなら、だれだと思ったのよ?」
草太はうつむいて答えた。
「え? 聞こえないわ」
「……狐かと思ったんだよっ!」
思い切って言うと、志乃は身をよじって笑い転げた。
「いやあね、狐が化けていると思ったの? なんてこわがりなのかしら」
「志乃こそこんなところでなにやっているんだ。もう日が暮れるぞ」
山の影は今にも畑をおおいつくそうとしている。
「……鼻緒が切れてしまったの」
持ち上げて見せた下駄は、親指にかかる部分が切れてしまっている。
「おぶってやろうか?」
「いやよ、はずかしい」
「ならば、おれのを履け。志乃には少し大きいが、鼻緒があるだけましだろう」
「草太はどうするの?」
「裸足でかまわないさ」
志乃はしばし考えて、下駄を差し出した。
「直してよ」
草太はため息をつきつつも、懐から手ぬぐいをとりだして細く裂いた。それを残った鼻緒にからませ、つま先の穴に通すと裏でこぶ結びをした。
「ほら」
「器用ね。剣なんかよりなにか作る方が向いていると思うけれど?」
「ほっといてくれ。行くぞ。すっかり遅くなっちまった」
ふたりは連れ立って岩木村への道を急いだ。大股で歩く草太の後を志乃は置いていかれないように小走りで追いかけた。
「また石舞台へ行っていたのか?」
振り向きもせずに草太が聞いた。
石舞台は山の中にある、平らな岩のことだ。月読の祭のときはそこに贄を捧げる。祭の日以外はだれも近寄ろうとはしない。しばしば石舞台をおとずれるのは志乃だけだ。そのせいで志乃は村の若い娘たちから気味悪がられている。
「お花を供えてきたの」
志乃はさらりと答えた。
「あそこがどういう場所か知っているだろう」
「村を守る神さまを祀っているんでしょ」
「神様なもんか。鬼だ。あれは村を守っているわけじゃない。村が月読の掟を守るから手出ししないだけだ。祀っているのは敬っているんじゃない、鎮めているんだ」
村に着くと、草太はやっと志乃の顔を見た。深みのある黒い瞳でまっすぐ見つめた。
「もうあそこへ行くのはよせ」
志乃が口を開こうとしたとき、ふたりの間に老婆が割りこんできた。
「なんだろうねぇ。年頃の男女がふたりきりで会うとは。はしたないったらありゃしないよ」
穢れた空気を払うように手をひらひらと揺らす。
「ちがうんです、ばばさま」
事情を説明しようとする志乃をばばさまはしわだらけの手で押しとどめた。
「おや、言い訳をする気かい?」
「そんな、言い訳だなんて。わたしたちはそんな関係ではありません」
「そんなの知ったこっちゃないよ。まったくみっともないねぇ」
まだ言い返そうとする志乃をさえぎって、草太は軽く頭を下げた。
「ばばさま、すみませんでした。今後気をつけますので、今日のところは見逃してください」
ばばさまは少しばかりおおげさに眉を上げた。
「ふんっ、草太は少しばかりわかっているようじゃないか。これからは気をつけるんだね」
ばばさまは小さな体を揺らしながら去っていく。
「なんであやまるのよ。わたしたち、なにも悪くないじゃない」
「疑われるようなことをしたんだから、しかたないさ」
「なによ、それ。はしたないとかみっともないとか、変に勘ぐる方がよほどはしたないわ」
志乃の言い分はいつもまっすぐで正しい。だが、まっすぐすぎると、相手に突き刺さってしまう。草太にはそれがこわくて、事を荒立てないことが第一になってしまう。草太だけではない。だれもがそうやって大人になっていくのだ。だが、それが志乃にしてみればゆるせないことなのだろう。そんな志乃は雪どけ水の流れる小川のようだと、いつも草太は思う。
鼻緒の礼を言って去っていく志乃のうしろ姿を草太は名残惜しい思いで見つめた。
「草太さん、また志乃さんといっしょだったのですって?」
帰るなり兄嫁がよってきた。本人より話の方が先に家に着くのだから、まったく村の女たちの情報網には驚かされる。
「かよ、やめておけよ。おおかた、帰り道がいっしょになっただけだろう」
兄の寅吉が助け舟を出してくれたので、草太はそそくさと部屋にあがった。かよは、まったくうちの男衆は覇気がないんだから、と吐き捨てて夕飯のしたくに立った。
寅吉が肩をすくめて苦笑する。
「まあ、あれだ。かよもおまえの心配をしてるってことだ」
「うん。わかっているよ」
部屋の奥からとたとたと軽い足音が近づいてきて、草太に飛びついた。
「おじちゃん、おかえり」
「やあ、喜助。ただいま」
「ねえねえ、剣のお稽古どうだった?」
「どうって……いつもどおりだよ」
「いっぱいやっつけた?」
「うーん。どうだろうなぁ」
まだ五つになったばかりの甥っ子は、草太が剣の達人かなにかだと思っているようで、ことあるごとに何人やっつけたか聞きたがる。しかし、草太はもっぱらやっつけられる側で、毎回返答に困ってしまう。
「どうら、喜助。とうちゃんのところにこないか?」
寅吉が広げた腕の中に喜助は飛びこんだ。あぐらをかいた寅吉の膝の上で子犬のように丸くなるとすぐにうとうとし始めた。
「喜助は剣術がめずらしいんだな」
草太が言うと、寅吉は軽く笑った。
「岩木村で剣の腕など上げてどうする。農家の次男坊が剣を振り回したところでなんにもならないだろう」
草太に返す言葉はない。ひそかに目的があって習っているものの、志乃が言うとおり手作業の方が性にあっている。
「でもまあ」
喜助が表情をひきしめる。
「所帯を持つまでは好きにするがいいさ」
草太は小さくなる。両親を早くに亡くしてからというもの、年の離れた兄夫婦が親代わりになってくれている。そのことには常に感謝している。だが、畑の手伝いをぬけて剣の稽古に行かせてもらうなど、あまえっぱなしだ。
「しかしな」
寅吉は膝をつめてくる。
「おまえも十六だ」
いやな予感がする。
「そろそろ嫁をもらったらどうだ?」
そらきた。草太は無意識に顔をしかめた。
そんな弟の表情に気づかないふりをして、寅吉は先を続けた。
「この前話した茶屋の娘はどうだ?」
「あれは断ってほしいと頼んだはずだ」
「若い娘にそんな恥をかかせるようなことができるか。あちらはほかからも縁談があるのに、ぜひ草太と、と言ってきているのだぞ」
「だったら、そのほかからの縁談の方を受けてくれればいい」
寅吉は、寝返りをうった喜助を抱きなおし、まっすぐ草太の目を見た。
「なにが不満だ? 働き者で、たいそう器量よしだそうじゃないか」
「知らないよ、そんなこと」
「なんだ、顔も見てないのか? 道場の近くだろう?」
あちらは、稽古に通う草太を見るたびに思いを募らせているらしいが、草太にしてみれば、茶屋があることすら気にもとめていない。草太にとって大切なのは、ある目的を果たすことだ。そのために剣の稽古に通っているのであって、道場の近くになにがあろうと関係ないのだ。それに、もし嫁をもらうのなら……。
「――あの娘はだめだぞ」
草太が口を開く前に、察した寅吉が先手を打った。
「どうしてだよ」
「どうしてもだ」
「たしかに志乃は変わったところがあるよ。でもそれが悪いことか? 人を困らせることか?」
「そういうことじゃない」
「なにが気に入らないのさ?」
「だから、そういうことじゃないんだ」
少し荒くなった寅吉の声に、喜助がむずがってもぞもぞ動く。草太は声を落とした。
「そりゃあ、まだ志乃がおれのことをどう思っているかわからないけれど……」
「あの娘は」
寅吉は意を決した。もうすぐわかることだ。草太にははっきり言っておかなくてはなるまい。
「あの娘は……今年の贄なんだ」