「具楽須古の種」第10話(全35話)
第三章 道行き
旅の始まり
小夜子と神楽は、庵を出ると村と反対方角に進んだ。二人とも風呂敷包みをたすき掛けにして背負っている。神楽のものはなにやら旅の支度らしいが、小夜子の荷は例の紙の束だ。
邪魔なので笹の庵に置いていこうとしたのだが、巫に止められた。旅の途中で少しずつでも読んでみるがいい、と。役立つ情報が載っているわけでもなさそうだし、それほど大切なものとは思えないが、借りたものを返すのも道理だ。しかも小夜子は無断で持ち出してしまっている。小夜子は渋々風呂敷包みを背負ったのだった。
神楽が前方を指差した。
「あれが天つ山です」
はるかかなたに鋭くとがった山がそびえているのが見えた。
かなり遠そうだ。昔、若者は一日がかりで水を汲みに行ったというが、今回は子供の足だ。どれくらいの時間がかかるのか見当もつかない。
行く手には荒野が広がり、小石を敷きつめた道が伸びていた。道沿いにぽつりぽつり巨石があるだけで、あとは網目模様のようにひび割れた地面ばかりだ。道は真っ直ぐではなく、巨石をよけていくつものゆるいカーブを描く。曲がり角にある岩は不自然な形に下の方だけ削り取られていた。
見渡す限り、どんな生き物の姿も見えない。草木も生えていないため、多少風が吹いても音をたてるものはなにもない。強い風が吹いた時だけ、砂がさらさらと鳴った。
異様な静けさだ。今まではどんなに静かな場所にも音があったのだと気づかされる。真夜中の寝静まった家の中でも、冷蔵庫の小さなモーター音や、はるか遠くの救急車のサイレンが聞こえる。ひと気のない森林公園でも鳥のさえずり、虫の声、風に揺れる葉の音がする。どれだけ記憶をたどってみても、こんな静寂は初めてだった。
耳の奥でキーンと甲高い音が鳴っている。あまりにも静かだと耳鳴りがするらしい。言いようのない不安に包まれていく。
「――あのさぁ」
静寂を破ろうと出した声は、思っていたよりもはるかに大きく響いた。神楽だけでなく、声を発した小夜子自身もびくりとした。その様子を見て、神楽が少し笑う。小夜子は声を落とした。
「だれもいないね」
「そうですね。このあたりでは、多々良村しか人は住んでいませんから。天狗さまの涌き水以来、人の往来はないと思います」
「それじゃあ、この道を作ったのはずっとずっと昔の人たちなのね」
「これは道ではありませんよ」
「え?」
「川底です。いえ、川底だったところです。あ、ほら、あれを」
神楽はしゃがんで、岩の陰にある白いものを指した。
「これは……魚の骨?」
小夜子はなに気なく手にとろうとして、「あっ」と短く叫んだ。骨はサラサラの粉になって、指の間をすりぬけて落ちていった。
「だいぶもろくなっていますからね」
神楽は立ち上がっても、小夜子はまだ白い粉のついた手のひらをぼう然と見つめていた。
「大丈夫ですか?」
「え? ……あ、うん」
小夜子は手をはたいて立ち上がった。
「すごいわね。あんなの初めて見たわ」
「わたしは魚なるものを見たことがありません。川に住む生き物だと伝えられているのですが、その川とやらも話に聞いたことがあるだけです」
そうなのだ。もうずっと昔に川は流れることをやめてしまった。今の多々良村に本来の川の姿を知るものはだれもいない。
「異形なる者は水のない川を道とまちがえ、手にとっても崩れない魚を知っているのですね」
神楽は羨望のまなざしで小夜子をみつめた。そして、ふと小夜子の背後の一点に視線を止めた。
「あの……異形なる者……」
「あのさ、その呼び方、やめてくれる? ここでは角がないと異形かもしれないけど、わたしの世界では角のある方が異形なんだから。あんたなんかが来たら、鬼って呼ばれて悪者扱いされるんだからね。わたしには小夜子っていう名前がちゃんとあるの」
「失礼しました。では、小夜子どの」
神楽は小夜子の顔を見もしない。
「なによ?」
「あちらに動くものが……」
小夜子は神楽の視線を追って振り返った。そこには大きな岩があった。その頂上で、白くて小さいものが動いている。
「あっ! あいつ!」
小夜子はそう叫ぶなり、走り出した。神楽はあわてて小夜子を追いかける。
「小夜子どのはあの生き物をご存知なのですか?」
「ご存知もなにも」
小夜子は走りながら答える。
「あいつを追いかけてここに来ちゃったのよ!」
白い動物は小夜子に気づいてその場で跳び上がり、くるりと身を翻して岩の裏側へ逃げた。ふたりも岩の裏に回る。
するとそこには、小夜子と同じ年ごろの女の子がいた。
白いブラウスに、細いプリーツのつりスカートをはいている。まさかこんなところで人に会おうとは。小夜子も神楽も驚きのあまり、動くことを忘れて立ちつくした。
そのすきに、白い動物は女の子の首にかかっている竹筒にすべりこんだ。
女の子は不安に満ちた表情でゆっくりと近づいてくる。ところが、神楽の小さな角に気づくなり、飛び上がった。
「お、鬼!」
角に驚くということは、もしかして……。小夜子はとっさに女の子の頭を両手で包みこんだ。女の子は「ヒッ」と叫んで体を硬くしたが、小夜子は構わず頭をなでまわす。
「神楽、この子、角がないわ」
「まことですか?」
神楽も背伸びして確かめる。女の子は震え始めた。小夜子はようやく手を離し、手のひらを見せるようにして両手を挙げた。
「ごめんなさい。大丈夫よ。わたしは人よ。ほら、角なんてないでしょう?」
「ほ、本当だ……」
「あの子だって、ちっとも怖くないわ。角があるってだけで、わたしたちと変わらないみたいよ。昔話の鬼とはちがうの」
「そうよね、あの子は肌の色だって赤くも青くもなくて、人みたいだわ……」
女の子は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
小夜子の胸に、同じ世界の女の子にやっと会えた喜びがこみ上げてくる。
「そうそう。あいつ、まだあんなにチビだしさ。ちっとも怖くないって」
「チビってだれのことですかっ!」
神楽がにらむ。
「これから大きくなるんですっ! 背も角も!」
「あら、あんた、チビなの気にしてたの?」
「また言いましたね!」
「もしかして、見かけほど子供じゃないの? 碧落と同じくらいかと思ったけど」
「あんな子供と一緒にしないでください。たぶんあなたと同じくらいだと思いますよ」
小夜子は「へえ!」と、わざとおおげさに驚いてみせた。ふくれる神楽を見て、小夜子は楽しくなった。
「でも、よかった」
「なにがですかっ!」
「神楽にもそういう面があって」
「……」
「笹の庵ではさぁ、すっごく落ち着いてたじゃん? チビのくせに……あ、ごめん。子供のくせに、鼻につくっていうかさぁ……。でも、こんなふうにむきになったりするなんて、なんか安心しちゃった」
「……それって、ほめているんですか? けなしているんですか?」
「別にどっちでもないけど」
「あのですね……そういう時は、いちおう、ほめているって言っておいてください」
ふたりの会話を聞いていた女の子がくすりと笑った。すっかり緊張がとけたようだ。
「本当にちっとも怖くないわ」
「でしょう?」と小夜子。
「……なんだか、複雑な気分です」と神楽。
女の子は満面の笑みを神楽に向けた。
「これって、ほめてるのよ」
神楽が顔をしかめる。
「そんなわけないでしょう」